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『賽銭の民俗誌』斎藤たま(論創社)

賽銭の民俗誌

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「神様の前でどうして銭を放り投げるのか」

ラジオの「子ども電話室」に寄せられる問いに先生方がどう答えるかを聞くのはいかにも面白い。本書の著者・斎藤たまさんも〈当意即妙の、時には目を白黒させながら応える〉そのそぶりを楽しむが、あるとき「なぜ賽銭は放り投げるのですか」という問いに「社殿がこわれたら直さなくてはなりません、そうしたことに当ててくれるように金を差し上げるのです」との答えを聞き〈無理もない〉と思いつつ納得がいかなくて、「はしがき」でこう問いかける。


人に物を贈る時、それを放って拾わせたりはしたものだったですか。

それが神前では起るのです。むしろ、神様に聞こえた方がいいとばかりに、わざとも音高く放り投げるのです。


たしかに今年も初詣で、柏手を打つのと同じ案配で景気良く放り投げてじゃりりんと賽銭箱を響かせて晴れ晴れとした気分で帰ってきたが、さて、なぜなのだろう。

     ※

斎藤たまさんは1936年山形県東村山郡山辺町生まれ。1971年より全国各地を訪ね歩いて民俗風習の聞き取り調査を続け、著書も多い。本書はこれまで集めた資料の中から本テーマに添って組み立てられたもので、賽銭は、銭の前は米、その前は石だった(と思われます、と著者は書く)、ならばその性格をたどっていけば賽銭の本来の姿が知れるのではと、各地の銭、米、石を追っていく。



賽銭の起源を求めるための聞き取りを書き下ろしたものではないから引用される事例の場所や時代はばらばらだ。だがたとえば、墓穴を掘る時に四隅とまん中に銭を置いた話のすぐあとに、〈土地神さまから地を買うのだなどど説明されますが、それはどうでしょう〉ときて、その銭と同じ働きをウツギの枝で地面を叩いていた例が示される。一つ二つ三つと同様の事例が並べられると、あ、なるほどな……と思うものだが、こんなふうにわずかの事例を前に推論をして、あとは見ず聞かずに落ち入りがちな愚を戒めるのだ。

     ※

賽銭に米をまくのは広い地域でみられたようだ。大正始めの福井県小浜市では正月になるとまかれた米で拝殿が真っ白になったというし、おひねりにして供えた地方もあるという。また棺に米をまく地域もあって、これは生きている人と亡くなった人との間にいる〈寄ってもらってははなはだ迷惑する第三者に打つもの〉ではないかと書く。



ここで思い出すのは昭和40年代に立て直した実家のことだ。建前のときに近所の人たちを大勢集めて、屋根から餅と五円玉をおひねりにしてまくのだった。どこのお宅でもそうだった。子どもだったのでただただ拾うのが楽しくてその意味を考えたことなどなかったが、近所への心遣いにしては餅も銭も少な過ぎるし、第一そのための宴席は別に設けていたはずだ。骨組みが整ったばかりの家に「寄ってもらってははなはだ迷惑な第三者」なるものに向けて打ちつけていたのであって、それはすなわち地域全体にとって「寄ってもらってははなはだ迷惑な第三者」だったのではないか——そんなことを考えた。



今にすれば現実味のないまよけだが、そもそも"魔"に現実味なんてあるものか。むしろ日常に潜む"魔"にめっきり気づかなくなっていることを、本書を読んでつくづく思い知らされる。もしや具体的な誰かを「寄ってもらってははなはだ迷惑な第三者」などと感じることがあるならば、それこそ"魔"が忍び寄ってきた状態だ。そんな時こそ、目に見えぬ神に向かって高々と賽銭を放り投げたいと思うのだ。


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