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『希望難民ご一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想』古市憲寿・本田由紀【解説・反論】(光文社)

希望難民ご一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想 →紀伊國屋書店で購入

「豊富な一次資料を用いた若者の『自分探し』分析」

三浦展(『下流社会』)などの著名な論者により、若者が夢の「青い鳥」を追い過ぎているという言説がひとしきり行き渡った。しかし他方で、現在の若者はリスクテイクをせず、本を読まないし旅行にも行かないなど、自閉的になりつつあるという人も多い。一体若者は、内実のない夢を追っているのだろうか、引きこもり内閉していっているのだろうか。

この『希望難民ご一行様』の著者、古市憲寿は25歳で、彼自身が若者と呼ばれてしかるべき年代である。本書は大学院に提出された修士論文を元にしている。
古市は三浦展に近い見方をしている。彼がサンプルに選んだのはピースボートという、世界一周クルーズを行うNGOの活動である。

まずは古市の議論を概観してみよう。
最初に理論篇があり、1973年を境とする戦後世界の転換を経た「後期近代」を、諸個人が「終わりなき自分探し」を強いられるものと規定する。

次に、日本における旅行の歴史をまとめたパートが続く。マスツーリズムの普及を経て、そのマスさを嫌ってそこから抜け出そうとする人々が出現する。日本では「カニ族」、「アンノン族」、それの系譜上のバックパッキングなどがあった。
しかし近年は、「個性」や「自分探し」を求める欲求と、日本人同士で安心・安全に旅するという欲求を同時に満たす「新・団体旅行」という潮流が人気である。テレビ番組の「あいのり」をイメージすれば分かりやすいかもしれない。ピースボートはその典型例とされる。
カニ族」や「アンノン族」と、現代の「自分探し」とが異なるのは、帰るべき「企業社会へのレール」という人生ルートがすでにないことであるとされる。

続いてピースボートの概要を述べるパートがある。
80年代半ばの創設時は、左翼的な政治団体という側面が色濃かった。その後事業規模を拡大させてくと同時に、左翼的な政治性は薄まっていく。
特筆すべきは「ボランティアスタッフ」(ボラスタ)という制度であり、ポスター貼りなどの手伝いをすると、参加料金が割引になる。長期にボラスタ活動を行えば旅費をタダにできる。ボラスタは、「ポスターを貼れば世界一周できる」という分かりやすい物語を提供する制度であり、積極的な参加者はこの活動を通してピースボートという「共同性」を相互確認するようになる。

他方で、世界一周の割に安価なため、退職した高齢者を中心に、単なる旅行目的で乗船する客も多い。ボラスタ出身の積極的な若者たちと、こうした高齢者は、船の中でも一種の対立関係を形成していく。本書の主な対象は、高齢者ではなく若者たちである。

古市の質問紙調査によれば、乗船した若者たちの属性は、学生、「周辺的正社員」、「周辺的労働者」(フリーターなど)、資格保有者(看護師など)に分類できる。学生より正社員が多いが、いわゆる大企業の正社員はほぼ皆無である。看護師初め資格職が多いのは、復職が容易だからではないかという。年収は200万円前後が多く、同世代平均より少し下の層が多い。

次は、いわば「自分探し」分析篇である。
参加者の若者たちは、ボラスタ出身者だけではない。単なる観光目的の参加者は若者にもいる。 古市は「目的性」(ピースボートの「左翼的」な政治性を共有する)、「共同性」(共同体としての場・経験の共有を求める)という軸を設定し、その強弱で若者を4つに分類する。
・「セカイ型」(目・強、共・強、タームとして分かりにくいが、要するにピースボートの提唱する護憲や世界平和などの理念と、祝祭的な盛り上がりにともに深くコミットする層)
・「自分探し型」(目・強、共・弱)
・「観光型」(目・弱、共・弱)
・「文化祭型」(目・弱、共、強)

クルーズ中の参与観察による記述で最も重視されるのは、船のマシントラブルなどによりスケジュールに生じた遅延・変更、またそれに対する主催者側の態度に年輩の参加者が怒り、ビラをまいて抗議運動しようとしたエピソードである。
この動きに対し、最も積極的な参加者たる「セカイ型」の若者が、主催者を擁護して反対した。しかし古市は、彼らの反論は合理性を欠いた感情的なものであり、「異質なものに対する耐性の弱さ」をそこに読みとる。

古市は「目的性」を重視する「セカイ型」「自分探し型」の若者たちに極めて冷淡である。彼は学力テストを行っており、その結果参加者の若者たちは、日本初の総理大臣を知らない人が多く含まれるくらい、全体的に学力が低かった。
古市によれば、彼らは具体的に憲法や平和の問題を考えている訳ではなく、ただ群れ集って「感覚の共同体」(セネット)を形成しているだけである。アイデンティティ不安を抱えた若者たちが、「一緒に盛り上がる」「島宇宙型」のコミュニティでしかない。「若者のロマンの受け皿」として機能している点では、右翼にのめり込む若者たちの集団と変わらない。

次に、クルーズが終了した二年弱ほど経った後に行われた、追跡調査の様子である。
「共同性」を重視していた「セカイ型」「文化祭型」は、ルームシェアなどを通じた濃密な人間関係を、追加調査時にも引き続き結んでいた。
しかしそれはもはや単なる友人関係となっており、「セカイ型」が船内で唱えていた「護憲」や「世界平和」は、もはや誰にも重視されていなかった。
「観光型」は復職などを通し日常へ戻っていた。
最も問題なのは「自分探し型」であり、さらに別の手段で海外を目指すなど、「終わりなき自分探し」を続けている者が多かった。

最後に、この調査の発見のまとめと、それに基づく提言がおかれている。
ピースボートへの参加とは、若者の「自分探し」にとっては二重の「冷却」である。漠然とした「自分探し」が、ピースボートによって「世界平和」という具体的な目的意識を持つようになるのが第一段階、しかし旅が終わればその目的意識が忘却されてしまうのが第二段階である。

こうしてみると、若者にとってのピースボートとは「承認の共同体」であり、相対的に貧しい立場に置かれた者たちが、相互の存在を慰撫し合う場所である。それが経済的配分をめぐる異議申し立てや、社会運動につながることはない。
こうした共同体の存在が、相対的に不利益を被る層に自己満足をもたらし、経済的格差や不正義をむしろ固定化・延命してしまうという批判もある。
しかし古市はこうした批判にも同意しない。むしろそれで良いのであり、「自分探し」で社会から退引した若者たちも「そこそこ楽しい暮らしを送っていける」のだから、いいのではないかという。
むしろ、キャリア構築過程が不明確な現在の日本の雇用市場において、失敗する可能性の高い「クリエイティヴ」志向を抱き続けることの方が危険である。よって「若者をあきらめさせる」ことが必要だというのが、古市の提言である。

本田由紀が末尾に「反論」と銘打った紹介文を寄せており、「承認の共同体」を支える経済的・物質的基盤が実は脆弱であるかもしれないこと、また「目的性」を捨てることはかえって「生きづらさ」を増長させるかもしれないことなど、極めて真っ当な異議を提示している。

評者の個人的な感想を述べれば、以下のようになる。まず、労をいとわず貴重な一次資料を集めた、秀逸な修士論文であることは言うまでもない。
その上で言えば、上昇移動する人と下降移動する人とドロップアウトする人、また経済的合理性を備えた共同体やネットワークと、それらを度外視した「承認の共同体」、などのすべては、あらゆる社会に不可避的に存在するものである。「後期」ではなく「前期近代」からすでにあるだろう。よってその存在自体の良し悪しを議論することには、あまり意味がない。
問題があるとすれば、たとえば第一に、その存在が何か良い/悪い社会的機能を備え、かつ一定以上の影響力を持っている場合である。第二に、知らず知らず特定の方向に諸個人が吸い寄せられていってしまうような力学(特定の主体の意図によるものでなくとも)の現れとして、そうした共同体が現出している場合である。

ここで古市が解釈した(実態通りとは限らない)ピースボートのような「承認の共同体」が、存在することには何の不思議もないし、他にもいくらでもある。その上で著者が何を問題として認識しているのか、評者にはよく分からなかった。
結論で著者は、こうした共同体は好ましい機能を持っていると述べている。しかしその構成員の行動や心性に対する評価は、一貫して非常に低い。
では、こうした共同体は好ましくない形で機能している、あるいは「誰かをだましている」ため、なるべく減らす方が望ましいのだろうか。しかし結論では「若者をあきらめさせる」ためには必要なものだと述べられている。
取りまとめると、「いつ、どこの世にもありがちな共同体がここにもあって、良くはないが悪くもない」という結論に見えてしまいうるのが、本書のもったいなさである。

おそらく「後期近代」という時代認識を、「自分探し」の一点にしか結び付けていないことが、議論の弱さをもたらしている。
イノベーション要求のようなものがなければ、社会は停滞していくしかない。それは「後期近代」を持ち出すまでもないことである。
古市の認識と提言は、現状そうした要求が、社会において現実化しそうもない形で滞留していることに対して向けられているのだ、と評者は解釈した。

「夢」や「クリエイティヴ志向」が、相対的にリソースを欠いた層にこそ抱かれ、相対的にリソースをまだ保持している層はいわゆる「安定志向」を強めている。前者の志向は、この社会のキャリア構築過程が不透明なこともあり、社会の中に具体的な成果を残しえない形で漂流するしかない。
それを見た相対的に優遇される層は、ますます「安定志向」を強める。こうした、社会参加やイノベーションに対する動機付けをめぐる一種の「ミスマッチ」は、評者自身が大学などで、若者たちの現状を見て憂うことの一つである。
古市がこれに同意する必要はない。しかしたとえばこうした問題提示に対し、何かしら参考になったり応答したりする発見が欲しかった、というのが評者の身勝手な感想である。

さらに評者の個人的な印象論を述べれば、「若者論」や「世代論」の有効性が、今後は消失していくかもしれない、という漠然とした予感がある。
元々日本では、性別をわずかな例外として、国民の内部に考慮されるべき「差異」が存在しないというフィクションが共有されていたからこそ、「世代」がいわば無理矢理にクローズアップされてきた。
しかしながら「分厚い中間層」が想像しにくくなった後、いわゆる「格差」が前提となった後で社会化された層は、時代性こそ共有しつつも、何重もの「差異」あるいは「分断」を内包する世代となるだろう。
それは親世代がいなくなった頃、本格的に可視化されていく差異かもしれない。そうなった時に初めて、若者が「夢を追っている」「リスクを取らない」云々という問題ではなく、社会における「若者」というカテゴリーの位置づけ自体が変化しているのであり、それを踏まえなければ何の対策も取りようがないことが明らかになるだろう。古市の記述は、その後にこそ改めて読み返される価値を持つものかもしれない。
評者は著者と知り合いでもあり、いつもより率直な感想を書かせてもらった。しかしいずれにせよ、現在の若者の行動や心性に関心のある向きには、ぜひ手にとって頂きたい一冊である。

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