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『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』池上英洋[編著](東京堂出版)

レオナルド・ダ・ヴィンチの世界学

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レオナルドを相手に本を編むことのむつかしさ

山本義隆氏の大労作『十六世紀文化革命』(〈1〉〈2〉)の読後、その勢いのまま読むに格好の大冊が出た。レオナルド・ダ・ヴィンチの「多岐にわたる活動を、あますところなく網羅したはじめての<レオナルド全書>」(帯の惹句)たる本書である。前書きも何もなくいきなりレオナルドの解剖学、レオナルドと数学・・・と、理科系のルネサンス文化史において、文献一本の先行史がレオナルド・ダ・ヴィンチ[以下レオナルド]の「詳細な観察と計測」しか信じない態度によって一撃くらい、文化が大きくガリレオの時代に向かって舵を切られていくことをいう各論は、世紀のとば口にあっていきなり「十六世紀文化革命」のヒーローたるべきこの天才の姿を浮上させる。

三部構成で、第一部「自然科学」、第二部「芸術」、第三部「人と時代」として、各部が「解剖学」「数学」「工学」「天文学と地理学」というふうに、また「絵画・素描」「音楽」「演劇」「彫刻」という具合に細分化されて、全部読むと、改めてアルベルティやレオナルドといった、一人で百学連環をやり、アルベルティはそのうえ第一級のスポーツマンたり、レオナルドは結婚プランナーまでやったというような万能ぶりを可能にしたルネサンスとは何だったのか驚く他ない。こういうの、「普遍人(homo universalis)」といった。細分狂いの現代からは夢の夢だ。

圧倒的に面白いのは「レオナルドと工学」の田畑伸悟論文。全員大学関係者の中、唯一、日本アイ・ビー・エム株式会社勤務の現場人感覚がはつらつとして、ぼくが人文系読者のせいもあろうが、あっという指摘多し。なんとなく工学者レオナルド、技術者レオナルドというのでなく、工学と技術の観念規定をはっきりさせたうえ、この両者の間を自由に行ったり来たりできつつ、しかしその生彩は「物づくり」の技術者としての方にある、という論旨は明快極まる。「現場」ふうの言い方では「品質向上、大量生産、コスト削減」に意を用いる卓抜せる「問題発見能力」と「問題対応能力」というような評価になるらしいのだが、そういう議論が、「技術者の需要が高い状況では技術者として、技術者の需要が低い状況では芸術家として振る舞った人生」という、他の論者がもてあまし気味の万能天才の多面ぶりをあっさり総括しきる視野と修辞の見事さを以って、この論文が、欠落した序章を補う完璧な序文。二度目読む時はここから入る。

工学におけるレオナルドの第一歩は、機械を機械要素という機能単位に分けて論じたことにある。機械は、様々な部品の組み合わせで構成されているが、どの機械にも共通した要素ごとに機能性をまとめておけば、それらを組み合わせることで様々な新しい機械を容易に製作したり、他の人間に説明したりできるはずである。だが中世までの世界では、機械ごとに説明されることはあっても、機械と機械の共通点について論じられることはなかった。機械要素は、その時代の技術レベルに応じて様々なものが考えられるが、レオナルドの時代には、歯車、ネジ、梃子(てこ)、くさび、滑車、輪軸、バネ、カム、リンクなどが存在していた。(p.64)

こういう「機械要素の認識」によって「機械の動作の数値的な定量化が可能となり、機械の複雑化と効率化を可能にしていく」ことになり、「このような技術の一般化と集成が、その後の工学の体系化という方向へ繋がっていく」というふうに田畑論文はまとめられるのだが、本人識らぬ間に、16世紀マニエリスム文芸を支配した“ars combinatoria”[組み合せ術]を工学的に説明しおおせている。「ちなみにレオナルドが生きていた時代、彼に対する呼称はイタリア語で“ingegnere”、あるいはラテン語で“ingeniarius”とされていた」というさりげない指摘までが、今やその中で<文>と<理>が重なろうとしているありうべきマニエリスム文化論の人間にとっては泣いて喜ぶ一撃なのだ。ご本人がそういう脈路を知らず坦々と語り進むのが爽快だ。

レオナルドの天文学・地理学を扱った小谷太郎エッセーも楽しい。自分の論は「正直いって心許ない」が、自分は「はっきり言って無知」だから、「開き直って」「きままに」書くなどと言いながら、レオナルドという「難儀な性格」のうんだ「まちがいだらけ」の手稿相手に「筆者はもう疲れました」と笑わせておいて、「その思考に瞬発力はあるが持続力はなく、記述にひらめきはあるが首尾一貫していない。月や太陽の光についてすぐれた洞察をしながら、発表せずに暗号のような手稿の中に埋もれさせてしまう。実験で理論を検証するという近代科学の原理を見通したようなことを述べながら、どうも自分ではあまり実験をしていない」等身大のレオナルド像は、他のどの論文よりもクールで説得力がある。

もうひとつ印象深かった一文が、レオナルドの「変形(strasformazione)」嗜好を言った金山弘昌氏の「レオナルドの手稿について」中のもので、とても楽しい。

このようにレオナルドは自らの眼による観察によって、多様な現象の中に統一的な体系性を見出していたわけだが、そのもう一つのわかりやすい例が「水」である。水のテーマは、彼の膨大な手稿の至る所、すべての分野に一貫して登場している。例えばそれは、機械工学・建築の分野では<モナリザ>の背景のモティーフとなったりする。しかし現実の背後にある共通原理を「類比」によって理解するレオナルドは、表面的な類比に留まらず、水が自然という大きな装置を動かす重要な要素のひとつであることを見抜いていた。彼は水の渦巻きからレダの渦巻く髪型を連想し、鳥の飛翔における気流が水流と類似した性質であることに気付き、河川などの水流が人体における血液循環と同一の原理に基づくことを直観する。そしてついには、宇宙論のレベルにおいて、血液が巡る人体と水が循環する地球が同様の有機体組織であると考えるのである。

すばらしい。「レオナルドの独自性をもっとも明白かつ詳細に示してくれるのが手稿なのである」とも言っていて、レオナルドの生涯にわたる「膨大な量のメモやノート、素描や図面の類」の一大集積体たる手稿相手なればこそ、こういう見事な批評が可能だと言いたげだ。

この面白さがそっくり第二部「芸術」の厖大ページの重さにはねかえる。ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットにもたれる形で、結局、美術史を名乗る部分のみ、相変らずア・プリオリに対象分野が確在するかの細々しい専門的議論にのめりこみ、学会で先行する大物連の仕事に敬意を払いつつの典型的な論文が次々と続くのである。ぼくが文系読者でどうしても理系・工系に甘く、なまじ遠近法と絵画の関係に詳しいが故の、こうした感想になるのかと考え、何度も読み直したが、第二部は全体におとなしい。専門領域の中ではそれなりの発見もあるのだが、第一部にみなぎった驚きには及ばない。

第三部では、フロイトによるレオナルド観が、文字の世界に難点持つレオナルドの発達障害の指摘ともども、いまさらながら面白いし、「レオナルドと近代日本」は資料的価値がある。

相手が細部と全体の関係そのものを生きた人間であることから、本書の編集ないし目次構成もが歴たる<内容>とならざるをえない困難な本なのだが、どうやら編者氏にその認識の緊迫感がないから、第一部「自然科学」、第二部「芸術」、第三部「人と時代」といった、今あるべきレオナルドと仰有りたい相手の像とはおよそちぐはぐな目次構成におさまったものと思う。「分野を細分化してレオナルドについて論じることのナンセンスさを知った上で、しかしこうしたアプローチが現代では最も有効」といったラチもない言い訳ばかり書き連ねた序文自体、笑止千万のナンセンスである。すぐれた各論なのに統一像は読み手に丸投げ。「無理に統一見解」ははからないと言う。はかれよ、無理に。それがレオナルド・ダ・ヴィンチを「あますところなく網羅」するということだろう。ただの並列ではすまない。ホッケの『迷宮としての世界』の本としての中心――迷宮の原案――に何故レオナルドがひそむのか、「現代」を口にするレオナルド論なら、「16世紀文化革命」をネオ・マニエリスムに蘇らせようとする動きの中で、レオナルドを「編む」ことの意味、その困難とスリルとを思え、ということである。大変な労作なのに、「本書、画集、評伝といったものがひと通り揃って」からレオナルドがわかるという、謙遜なようでただ愚かしい序文のひとくだりで、ぶちこわし。執筆メンバーに悪いだろう。細部と全体という実にレオナルド的なテーマを編集作業で悩む逆説の書となった。意図したちぐはぐなら、凄いのだが。

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