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『時代の目撃者-資料としての視覚イメージを利用した歴史研究』 ピーター・バーク[著] 諸川春樹[訳] (中央公論美術出版)

時代の目撃者

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「視覚イメージの歴史人類学」にようやっと糸口

なにかと話題多い映画監督のピーター・グリーナウェイだが、その最新作『レンブラントの夜警』でもって2008年、「文化史」をめぐる動きは賑々しく始まることだろう。名画『夜警』に加えられる「解釈」という営みそのものを、解釈行為の極みたる一探偵(=画家)による殺人事件推理というテーマに映し出した、なかなかにウィッティな作品である。

徹底して画家の「目」にこだわるところからして、歴史家サイモン・シャーマの記念碑的大冊“Rembrandt's Eyes”が決定的なソースらしいことはまず間違いない。2008年のぼく自身の仕事がこの大著の邦訳刊行(『レンブラントの目』)で開始されることもあり、そして『魔の王が見る』はじめ、グリーナウェイがなぜオランダ17世紀にばかりかかずらう「歴史映画」家たるより他ないのかをほとんど唯一、執拗に書いてきた身であってもみれば、どうしても歴史(学)と、歴史をヴィジュアルを介して考える作業との関係に思いを致さないわけにはいかず、随分以前からヴィジュアルを「史料」として大いに取り込む新しい歴史学の展望と問題点を一度総ざらえしてみたいと考えていた。ちょっと参考的に絵をカットして挿入というおそるおそるの感じではなく、全巻の三分の一、いや半分が図版で埋まる研究書を「ヒストリー」の名の下に連発する歴史家が、サイモン・シャーマやバーバラ・スタフォードのように、この20年くらいはっきりその数を増やしている。考えてみれば、この「ヒストリー・アンド・アートヒストリー」(コロンビア大学でシャーマが所属している学科名だ)の大先達二人をプロモートしているのがぼくというわけで、ぼく個人の知的関心のありかをぜひ教えてもらいたいという個人的な思いもあって、取るものも取り敢えず跳びついた次第である。

ピーター・バーク自身、そうした新しい歴史学の動向に沿った一人であるのだが、大変平衡感覚のある書き手だから、ヴィジュアルを抱えて突っ走るシャーマやスタフォードの大著群とは違って穏やかな教科書である。古文書類が史学確立のための「証拠」として使われてきたのと同じような意味で史料が「証拠」になり得るか、というテーマに本一巻割かれたのは本書が最初でもあり、ホットな挑発書(かつてのジョン・バージャーの“Ways of Seeing”;初版1972/邦題『イメージ』のような)というより、大人な教科書であるのが有難い。史料としてのヴィジュアルの魅力を言い、そしてその「落とし穴」をも冷静に分析し、その上で平衡のとれた「第三の道」を勧め、最後に芸術社会学がゆっくりとこうした「視覚イメージの文化史」、もしくは「視覚イメージの歴史人類学」に移行していくためにエキスパートが忘れてはならない心構えを箇条書きにしてくれるところで終わるなど、いいのかと思ってしまうほどクールである。

・・・私は読者が視覚イメージを、あたかも決った答えがひとつしかないパスルのように解読するための「ハウ・ツー論」だと期待して本書を手にしたのではないことを願っている。本書があきらかにしようとしたのはそれとは逆に、視覚イメージがしばしば曖昧で多義的だということだ。したがって私たちのアプローチにはあいかわらず誤読の落とし穴が待ち受けているのであり、視覚イメージを読まない方法を一般論化することの方がはるかにたやすいと考えられてきたのも道理である。一方、多様性も何度も繰り返されてきたテーマである。それは視覚イメージ自体の多様性のこともあれば、それらの証拠が科学史ジェンダー、戦争、政治思想など異なった関心を持つ歴史家たちによって使用されたその多様性のこともある。(p.252)

この一文に尽きている。そしてフローベールの言とも、アビ・ヴァールブルクの言ともされる「神は細部に宿る」という言葉が全巻の締めになっているように、実にさまざまなヴィジュアルの細部読みをバーク自身やってくれる。17世紀オランダの画家サーンレダムが加速遠近法で教会内部空間を描いた「表象」的画家であることはスヴェトラーナ・アルパースの“The Art of Describing”(『描写の芸術』)でよく知っていたが、新教の教会たるべきなのに仔細に見るとカトリックの服装の人物たちが描き込まれているというのは流石のアルパースも見逃していて、そうかこれこそ偶像崇拝、偶像破壊を交互に激しくやった時代なのね、と改めて感心した。こういう具体的な例でのバークの読みが本書第一の魅力で、今まで取り上げた中ではダニエル・アラスの本の魅力に通じる。

それはそれで素晴らしいが、やはりピーター・バークと言えば、余人には手に余る20世紀「文化史」のサーヴェイができる、例えば(バークと非常に近しい気配の『クリオの衣裳』他の名企画者)スティーヴン・バンのタイプの大展望にこそ最大の魅力がある。本書でもそれが大きな魅力で、ブルクハルト、ホイジンガ、ヴァールブルク、フランセス・イエイツ等々、まるで文化史学最高の案内書、E・H・ゴンブリッチTributesもかくやという壮大な展望をうち開く中に、パノフスキー、ヴァールブルク派の図像学とヴィーン派「精神史」の関係、クラカウアーの映像社会学、アリエス他の「感性の歴史学」、フーコーの表象論、サンダー・ギルマンのメディカル・イラストレーション分析、ギーアツによるヴィジュアル学批判、そして歴史学と美術史学の間と言えば出ぬわけにいかないカルロ・ギンズブルクの「徴候」論、言語テクストがヴィジュアルを束縛する「イコノテクスト」を論じ始めたピーター・ワグナーの仕事・・・と、ヴィジュアルを史料として新しい人文学を工夫しようとしてきた一大系譜学がこの一冊でほぼ通覧できる。当然、歴史を物質文明の細部を通して見ると一番ぴったりくるいわゆる「風俗画」ジャンルで光彩を放つオランダ17世紀がひとつの中核で、アルパース、エディ・デ・ヨンク、そして想像通りサイモン・シャーマが主人公の一人となる。

歴史学カルチュラル・スタディーズの交わるあたりの整理も適当な分量配分で、「下層から見た歴史」、「読書の歴史」、女性史、そして「他者」史と抜かりなく、しかし差別のステレオタイプをつくり出していく当のものとしてのヴィジュアルを史料に用いることのややこしさという眼目に全てつなげていくあたり、やはりこの著者ならではの見事なフットワークである。歴史学精神分析批評、構造主義ポスト構造主義三者との関わりなど、少ないページ数でよくこれだけと思える的を射た簡潔な整理で、何もかも二項対立にしてしまう傾向、いわゆる言語中心の徹底という動向の中でのヴィジュアル侮蔑をきちんと押さえ、そろそろ翻訳刊行されるはずのマーティン・ジェイの“Downcast Eyes”に向けた恰好の露払い役にもなっている。

白眉は220ページから続く7、8ページ。歴史映画の「歴史」とヴィジュアルの関係を説くのにクラカウアーの映像論やヘイデン・ホワイトの「ヒストリオフォティ」論を押さえ、黒澤明ロッセリーニの映画の、歴史映画としての大きな意味を問うていく。『マルタンゲールの帰還』の史家ナタリー・Z・デーヴィスが映画のアドヴァイザーとして雇われることで、彼女自身の史学の方法が一変していくというエピソードが大変建設的、創造的だ。映画はその独自の細部処理によって、(1970年代以降、歴史家たちの間に流通した)「マイクロヒストリーの形成にも貢献」したという指摘は大変考えさせるところが大きい。「羅生門効果」と呼ばれるそうだが、ひとつの事象を別々の個人やグループが別々の見方で見てしまうという曖昧さを映画以上に巧く剔抉(てっけつ)できる世界はない。「目立たぬほどのささやかな動きや、数多くのつかの間の行為からなる日常生活の全体像を明らかにできる場はスクリーン以外にはありえない」(クラカウアー)。となると、ポジティヴな史家ピーター・バークとしては当然「歴史の研究者たちがそうした映像の力を制御し、過去を認識するための映画を自分たちで制作すること」を提言することになる。「歴史家と監督が同じ言葉を使って協力すること」のメリットという現実的提案にはうならされてしまう。ぼくの周囲でこういう発想を一度として耳にしたことがない。

視覚の曖昧、不確定性をよく知った上で云々というクールな議論はダリオ・ガンボーニに通ずるし、視覚文化論と歴史学が交錯するあわいに新しいディシプリンがうまれてくるのを感じる快感は田中純の大冊にも似る。この快感を歴史学プロパーで追ったエグモント、メイスン(シャーマとギンズブルクの弟子たちだ)共著の『マンモスとネズミ-ミクロ歴史学と形態学』の併読もぜひに。

重くならないように啓蒙性が前に出た訳文はさっぱりして読み易い。この世界をメインにした革命的雑誌『リプリゼンテーションズ』を『ルプレザンタシオン』と訳してしまうあたり、少し底が割れたかな。

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