『技術と時間2——方向喪失』(未邦訳)ベルナール・スティグレール<br><font size="2">Bernard Stiegler, 1996, <I>La technique et le temps 2. La désorientation</I>, Galilée</font>
●「スティグレールの記憶技術論——正定立、プログラム、時間的対象」
スティグレールは『技術と時間』シリーズの第一巻『エピメテウスの過ち』において、「人工補綴prothèse」としての技術の次元が人間の時間性や歴史性の根源的な条件をなしているということを明らかにしていった。この第二巻『方向喪失』においてスティグレールは、今度はその根源的な条件がそれぞれのエポックにおいていかにして具体化していくのか、ということについて論じていく。
技術一般の次元で問いが立てられていた『エピメテウスの過ち』に対して、『方向喪失』では技術の具体化の特定のエポックに問いが向けてられていく。そこでは技術一般のなかの下位区分に当たる「記憶技術mnémo-techniques」という独自の位相に焦点が当たることになる。技術はそれ自体が反復するものとして人類の記憶を構成するが、しかし記憶技術は記憶をそのものとして保存し、伝達していく。同じく技術という後成系統発生épiphylogenèseの層に属しながらも、この二種類の技術的記憶は明確に区別される。
あらゆる代補は技術であり、あらゆる代補的技術はプログラム〔プログラムの概念についてのちほど触れる〕を《外在化する》記憶の支持体である。しかしすべての技術的代補が同時に記憶化の技術であるわけではない。特殊に記憶—技術的な代補は新石器時代以降にしか出現しない。(p.16)
いうまでもなく、記憶技術によって生み出されていく集団的記憶の層は人類における記憶の生にとってきわめて大きな位置を占めており、人類史のそれぞれのエポックの種差性を理解していくためにはその層のもつ重要性を正面から引き受ける必要があるとスティグレールは考えるのだ。
スティグレールは現代を「方向喪失désorientation」の時代として捉えながら、「西洋Occident」における「方向喪失」の系譜を考察していく。ただし「方向喪失」とは技術という「外」への迂回を宿命づけられている人類という種にとっては根源的な契機であり、それゆえそこで問題となっているのは現代における「方向喪失」の種差的性格である。
スティグレールは「方向喪失」の系譜学を開始するにあたって、一見すると奇妙なことに写真という比較的新しい記憶技術をはじめに取り上げる。そこでは、しかしたんに「新しい技術」の出現の意味を考察することだけではなく、ほかならぬ西洋そのものの意味を掘り下げることもまた同時に目指されている。そしてそれに際して依拠されるのが「正定立orthothèse」という概念である。
ロラン・バルトによる写真の現象学(『明るい部屋』)は、写真という記憶技術の特権的な「指向対象Réferant」として、「それは—かつて-あったça-a-été」という被写体の存在の紛れもなさへの信憑を見出した。スティグレールはその分析を取り上げながら、そこに見出された信憑を「正定立」という過去への独自のアクセスの様態として捉え直す。「正定立」とは、ある過去の出来事に「正確に」到達しているという信憑を生み出すような記録の様態であるが、写真という記憶技術に焦点を当てて取り出されたこの概念はきわめて広大な射程をもつものとして扱われており、正書法的エクリチュールや、さらにはデジタルテクノロジーまでもがこの概念を通して理解されている。
記憶化のテクノロジーとしての写真や映画に固有なものは、正定立の概念のもとで考察されなければならない。ただしその概念は、アナログ的なテクノロジーの種類(写真、録音、映画など)だけではなく、すでに記憶の文字的テクノロジー(正書法的エクリチュール)を特徴づけるものであったし、さらにはデジタルテクノロジーをも特徴づけるものでもある。(p.41)
スティグレールはこの「正定立」の概念によって、西洋というエポックそのものを捉えようとする。たとえばハイデガーが「存在の歴史」と呼んだ「西洋」のロゴスの圏域は、正書法的なエクリチュールによって生み出された特定の「正定立」の圏内において際限のない解釈のプロセスとして展開される「差延的同一化identification différante」(p.52)の運動として捉え直される。また同時にこのプロセスは、ギリシャのポリスに端を発する民主政治の基盤としても見出される。すなわち「西洋」なるエポックの全体が、正書法的エクリチュールという特定の「正定立」的な記憶技術にみずからの支えを有する特定の遅れの体制であるとスティグレールは主張するのだ。
『方向喪失』において「正定立」と並んで重要な位置を占めているのが、アンドレ・ルロワ=グーランによって動物と人間という区別を越えて記憶一般を扱うものとして構想された「プログラム」の概念である。スティグレールはルロワ=グーランを踏襲して記憶を反復するプログラムであると捉えながら、人類においてはその記憶のプログラムが技術という後成系統発生の層において遅らされ、そのことによって新たな差異の可能性をもたらしていると考える。おおまかにいって遺伝的な記憶しか世代を超えて反復していくことのできない他の生物一般に対して、人類においては道具としての技術や記憶技術を支持体とすることによって、後成系統発生という「記憶の第三の層」において記憶が反復していく。ここに、人類独自の記憶のプログラムの領野が見出されることになる。
むろん、スティグレールがプログラムという概念で指し示そうとしているのは、コンピュータープログラムに見られるような際限なく同一のままでありつづけるプログラムではない。遺伝子のプログラムが反復を通して差異をもたらしていくように、人類の記憶のプログラムもまた差異を、「ありそうにないものl’improbable」を生み出すプロセスとして理解されている。たとえば記憶のプログラムの織り物として編み上げられていく集団的な記憶は、「特異化の、固有言語性のマークであり切っ先」である「スタイルstyle」を生み出すとスティグレールは述べる(p.102)。そこでは「民族性éthnicité」というものが、特定の虚構的な起源へと送り返されることなく、時間をかけて沈殿していった記憶のプログラムの織り物の、それぞれ確かな固有の色模様である「スタイル」としてポジティブに捉え直される。
ところで、スティグレールが現代のうちに見出す「方向喪失」は、まさにこの記憶のプログラムが生み出していく「特異性singularité」の抹消に関わる。現代的な「方向喪失」の状況にあってはそのような「特異性」の確保は次第に困難になり、そのことによってその「特異性」の経験を通して生み出されていく「個体化individuation」のプロセスもまた危機に陥っている。そしてそのような危機の中心的なエージェントとして見出されるのが「プログラム産業」であり、ここにおいてスティグレールの記憶技術論が文化産業批判の系譜と交差することになる。
ある出来事が生じるということ、社会的記憶の中になにものかが到来すること、このことは同時に新たな記憶が後成系統発生的記憶の層に書き込まれるということを意味する。裏返せば、そこへと書き込まれえないような出来事は、そもそも出来事として存在し始めることすらない、ということでもある。ところで物質性をまぬがれえない技術的支持体はその不可避の有限性において、無限の記憶を受け入れることはできない。ということはつまり、そこにはつねに記憶の「選別sélection」の原理が働くことを意味する。ある出来事とは、つねにすでにそのような選別のプロセスを経ることで選択的に仕上げられたものにほかならない。
記憶の、記憶すべきものの(その記憶すべきものの把持である記憶可能なものにおける選別がそれをそのものとして構成する)保存は、またつねにすでにその仕上げでもある。(p.138)
記憶の場の有限性にもとづく、ある出来事はつねに選別のプロセスを通しての「仕上げélaboration」によってしか生み出されえないというこのロジックをスティグレールは「出来事化événementialisation」と呼ぶのだが、現代においてこの「出来事化」の役割を大きく引き受けているのが「プログラム産業」であり、スティグレールはそこに批判を向けていく。
スティグレールは、遺伝子のプログラムにまで介入しそれを産業化していくバイオ産業までも視野に入れた全般的な「プログラム産業」批判を展開していく。しかしその批判においてもっとも重要な位置を占めるのは、アナログ技術の出現によって可能となった映画や音楽などの時間的に移行する「時間的対象objet temporel」を扱う文化産業的な「プログラム産業」である。というのも、のちに『技術と時間』の第三巻、『映画の時間と難—存在の問い』でより深く議論されていくように、時間的対象は同じく時間的に移り変わっていく意識の時間と深く絡まり合うがゆえに、そこには強力な「同期化synchronisation」のポテンシャルが潜んでいるからである。そして、現代における「方向喪失」の種差性が見出されるのはそのポテンシャルのただなかにおいてであり、のちには現代的な「方向喪失」は「ハイパー同期化」への傾向として理解されていくことになる。
以上のような問題意識からスティグレールはフッサールが『内的時間意識の現象学』で展開した時間的対象についての分析に踏み込んでいくのだが、ここでもまた、『エピメテウスの過ち』におけると同様に「時間のなかでの技術」から「時間としての技術」へと問いの位相が移行していることが見てとられる。スティグレールがフッサールの時間意識論に見られる「矛盾」を通して明るみに出していこうとするのは、フッサールがそこから技術的契機を徹底して排除しようとした形而上学的テロスとしての「生き生きとした現在」のただなかに、つねにすでに技術の次元が構成的に関与しているという事実である。アナログ技術に基礎を置く映画や音楽に代表される文化産業的な時間的対象という特定の「時間のなかでの(記憶)技術」が有する現実的なインパクトが、時間意識そのものを構成するものとしての技術という「時間としての技術」への考察を促しているのだ。
ただし、そこでのスティグレールの試みが全面的に成功しているのかといえばいくらかの疑問符が残る。
フッサールの時間意識論を「脱構築」していくスティグレールの議論は、二つのステップに分けることができる。1)意識の現在そのものに組み込まれた記憶としての一次的把持と、意識の過去として想起され回想される記憶としての二次的把持とを区別すると同時に対立させ、その前者のみに「生き生きとした現在」の特権を与えようとするフッサールに対して、その両者の対立という図式はけっして維持しえず、二次的把持はつねにすでに一次的把持へと介入し、その作用そのものの可能性の条件をなしているということを示していくのが第一のステップ。2)その議論を踏まえた上で、フッサールが「イメージ意識」と呼びつつ意識における記憶の出来事には非関与的なものとみなしてしまった記憶技術へと保存された記憶を三次的把持rétention tertiereと名づけ直しながら、一次的把持と二次的把持の関係がつねにすでに三次的把持によって条件づけられているということを示していくのが第二のステップ。
詩句を読むという経験を例として挙げながら、二次的把持という前—個体的な記憶の背景がもつ独自のリズムの中から一次的把持がいわば突端として浮かび上がり個体化していくさまを描き出すと同時に、そのような一次的把持と二次的把持との循環的な関係性を通して流れゆく意識を「渦巻く流れun flux tourbillonnant」(p.243)のモデルによって分析していくその手際の鮮やかさに比して、意識の構成における三次的把持の根源性を分析していくくだりには、どことなく曖昧さの印象が免れない。
たとえば一方ではスティグレールは、録音技術の出現によって「完全に同一の」音の流れを繰り返し聞くという経験が歴史上はじめて可能となり、そのことによって過去の聴取の記憶が現在の聴取に影響を与えるということ、すなわち一次的把持への二次的把持の浸透というものが客観的=客体的に明らかになったという例を挙げる。そのことによって、三次的把持と一次的/二次的把持との連関が間接的に示される。また他方では、幾何学の歴史がエクリチュールという三次的把持の媒介がなければそもそも不可能であり、それゆえ幾何学の歴史を担う「われわれ」の意識の「原—大いなる—現在archi-grand-maintenant」(p.264)が根源的に三次的把持によって構成されているという事が確認される。ここでは三次的把持と一次的/二次的把持との連関が、歴史的スケールをもつ議論との類比によって示されるということが行なわれる。しかしながらいかなる理路によって三次的把持が一次的把持と二次的把持との間の「渦巻き」の性格を根本から条件づけているのかという点については、明確な分析はなされていない。
『方向喪失』の巻はこのようにいくばくかの曖昧さを残しながら閉じられていく。しかしそこで残された課題についてはその5年後に刊行されることになる第三巻において、今度は「映画としての意識」という意識モデルとともに新たな回答が与えられることになる。映画という特定の「時間のなかでの技術」を手掛かりにしながら、スティグレールはふたたび「時間としての技術」という技術の根源性に関する問いを、カントの『純粋理性批判』の読解を通して技術を場とする意識の構成の原理の考察として深めていくのだ。そこではまた、「出来事化」のプロセスに不可避にともなう記憶の選別に関わる「基準論critériologie」についての「新しい批判nouvelle critique」の必要性が強く主張されることになる。
・主要関連文献
Roland Barthes, La Chambre claire: note sur la photographie, Gallimard et Seuil, 1980.(『明るい部屋』, 花輪光訳,みすず書房,1985年)
Jacque Derrida, Schibboleth, pour Paul Celan, Galilée, 1986, (『シボレート—パウル・ツェランのために』飯吉光夫・守中高明・小林康夫訳、岩波書店、1990年)
Edmund Husserl, Vorlesungen zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins, Husserliana, Bd.X.(『内的時間意識の現象学』,立松弘孝訳,みすず書房,1967年)
・目次
イントロダクション
第一章 正書法の時代
第二章 方向喪失の発生
第三章 記憶の産業化
第四章 時間的対象と把持の有限性
・関連書評
『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
『技術と時間3——映画の時間と難—存在の問い』(未邦訳)ベルナール・スティグレール