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『記憶する水』新川和江(思潮社)

記憶する水

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「根をはる語り」

 詩にはいくつかの書き方がある。


 日本の現代詩は、しばしば「詩なんか書いてませんよ~」とそっぽを向くようにして書かれてきた。こうなると読者の方も、「付き合いづらいなあ、」などとはじめから思う。付き合う前から、絶交しておくようなものである。

 「詩なんか書いてませんよ~」みたいな詩があってもいいと筆者は思う。詩人はどんどん、いじければいい。ひねくれ、ねじれればいい。でも、たまにはそうでもない詩も読んでみたいなと思うことがある。堂々と詩であることを引き受けるような詩。「私は、どうしたって私なのです」と宣言して、そのまま根をはってしまうような、照れや韜晦とは無縁の詩。

 新川和江は昔からそういう詩が書ける人だった。特に『土へのオード』、『火へのオード』、『水へのオード』といった一連の詩集は、ごく当たり前の日常を語りに巻き込んでも、まったく足腰のぐらつかないような、屈強な土台を感じさせた。しかも世界から、いつ何時旅立とうかという浮力なようなものがある。ちょっと、神秘への夢を感じさせてくれる。

 『記憶する水』は七〇代の後半に差しかかった新川の最新詩集である。冒頭の作品「遠く来て」の、出だし部分が素晴らしい。

一滴の水をもとめて

遙かなところからわたくしはやって来ました

ようやっと辿りついた大河には

多くの生命体がむらがり

両岸には大都市が繁栄していました

欲望に膨れた腹を剥き出しにした水死人が

浮きつ沈みつ流れてゆくのも目にしましたが

わたくしは尚 一滴の水にかわく者です

「私は~です」と宣言するのは、近代の詩の今ひとつの典型だろう。そんなこと、詩でないとなかなか言えない。でも、あらためてこうして言われると、もっと言って欲しかったのだなあ、と思わせる、そういう懐かしい響きがある詩だ。

 「ですます調」が効いているな、と思う。そういえばこの詩集、「ですます調」の部分は全体に饒舌だ。詩人は巫女のように、雄弁に天地を語る。地雷のことだって、語ることができる。

わたくしの踏むひと足ひと足を

土は鷹揚に受けとめてくれました

今 わたくしが立っているこの土がそうです

走ってゆく子供の脚を無惨に吹きとばす

悪魔の球根などではなく

柔らかな緑の芽をふく種子だけを蓄えている土

生ききってやがて地に崩折れるわたくし達を

そっくり抱きとってくれる あたたかな土です

揺るがないのだ。自分で自分の言ったことに酔ったりしない。長く書いてきた人ならではの、乾いた粘着力のようなものがある。

 「ですます調」の詩ばかりではない。たとえば、同じく水を語る表題作の「記憶する水」。

水には記憶する能力がある という

それはたしかなことだ

雨あがりの濡れた芝生に立ち

道のほうを見るともなしに眺めていると

庭下駄をつっかけた素足の

つま先や踵から這いのぼってきた湿気が

― おとどの牛車は

  今しがた こちらを気にしいしい

  素通りして行かれましたよ

などと言う

こちらはぐっと物静かで、ノスタルジック、内省的。でも目指すところは同じではないだろうか。「私は~」から出発して、水や土を媒介に、世界全体と交信するような飛躍をうかがっている。荒っぽいような野心。手際が良い悪いというより、どんどん語っていく勢いに押される。

 新川は2000年に全詩集を刊行した。その刈田に芽生えた蘖(ひこばえ)がこの詩集だという。哀悼の詩もいくつか。確かに「死」はずっと念頭にあるようだ。だからこそ、生まれ変わって土や水や骨になる、という幻想に生気がこもるのかもしれない。


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