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『Sean Scully』David Carrier(Thames & Hudson)

Sean Scully

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Sean Scully : A Retrospective

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A Retrospective”

Sean Scully : Wall of Light

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Wall of Light”

「ストライプの魔術」

 ただのストライプの組み合わせと見えるものから、驚くほどの表現力が生まれることがある。


 アイルランド出身の画家ショーン・スカリーの作品は、禁欲的なまでに線にこだわった、質素で、地味で、寡黙な画面ばかり。20世紀の抽象の多くは、こちらの視線を挑発するかのように単純であったり、意味なさげであったりするものだが、スカリーの作品は、その極地を行く。

 

作品の見られるサイト

www.artnet.com

www.artcyclopedia.com

 何もないし、何も起きない。何も語っていないように見える。絵画だって文学と同じでそもそも語ることが大前提なのに、それが開店休業というのでは理に合わない。

 でもスカリーの場合は、そこがむしろ出発点なのだ。たとえば人に話を聞かせたいと思ったら、一番簡単なのは大きな声を出すことである。が、大きな声で語れば、大きな声で語れるようなことしか言えなくなる。「~だぞ!」とか。「するな!」とか。「行け!」とか。そうすると、ああ、また大きな声で言っちゃって、と思われる。かえって聞いてもらえないこともある。

 そこで、話を聞かせたいからこそ、思い切って声を絞る。何も言わない。無音寸前の、ゼロ地点ぎりぎりのところまで下りていく。スカリーの前にもそういう人はいて、モンドリアンにしてもマレービッチにしても、それぞれ「何も言わない」の地点を意識しながら、削ったり、消したり、隠したりした。画面がたいへん物静かになる。そうか、こんな世界があったのか、と思わせる。抑制された語りならではの、力が迫ってくる。

 これを突き進めると、どこまでいくのか。徹底的に静かになった画面というのは、どんなものだろう。何も描かなければいい、というのはたしかにひとつの答えだけれど、何かを描いて、なお物静かであるという際どさも魅力的だ。

 それと、何も描かれていないようなキャンバスでも、ほんとうは何もないのではなく、すでにいろいろなものがあったりする。たとえばそこには平面がある。あるいは表面。それから手触り。物質性。広がり。枠。上下。左右など。何も描かなければ何もない、というのは幻想だ。描く前から、すでに、画面には何かが住んでいる。

 だから、画面をほんとうに静かにしたければ、画面にあらかじめ住みついているこういう絵画の精霊(もしくは地霊?)のような要素を、何とかしなければならない。ナチスドイツのアウトバーンみたいに土地を強制的に差し押さえ、弾丸道路を通すというやり方ももちろんありだが、画面の潜在力にもぐりこむようにして身を潜ませ、語る、もしくは黙る、という方法もある。スカリーがやろうとしているのは、後者の方である。

 スカリーの画面を見て私たちが思い出すのはまず、線はただ線であるだけで気持ちいい、ということだ。松田行正『眼の冒険』『はじまりの物語』でも言われているように、私たちは線と出遭うだけで無性に楽しくなる。さらに線が複数あれば、なんだ?なんだ?と迷ったり、数えてしまったり、興奮したりする。複数の線には眩暈の快楽がある。

 しかし、スカリーの場合は、単なる線ではない。幅のあるストライプである。算数の時間に習うように、線には本来幅がない。延長と、方向だけ。これに対し、スカリーの線には匂い立つような生々しい広がりがある。絵の具の塗り痕が露出していたりする。スカリーのストライプは線を模倣するのではなく、むしろ線であることから逸脱していこうとしているのだ。

 さらにスカリーには、縦と横の衝突がある。縦横は本来、もっと仲良くしてもいいはずのものだが、まるで異なる文化からやってきたよそ者同士のように、軋むような音をたてながらぶつかる。どうやらスカリーは、絵画面の基底に埋め込まれた縦/横という秩序に、つまり格子(グリッド)のシステムに抗っているのだ。縦はあくまで縦。横はあくまで横。四角い額縁を持った絵画で、そんなことが表現できるとは驚きである。ふつう私たちはまず、縦、横、奥行き、という空間秩序を見つけようとする。スカリーはまるでそんな約束事などなかったかのように、縦と横が相容れない様を緊張感とともに描き出す。こんなこと、できるんだあ、と感動してしまう。

 おかげで、線、縦横、広がり、延長、グリッドという、ふだんは絵画面の底の方に沈んでいてそれ自体としては注目を浴びることのない地霊たちが、あらためて動き出す。彼らの潜在力を引き出すことで、スカリーは独特の「静寂」を語っているのだ。その色彩は、決してきらびやかでもなければ、よそ行きでもない。むしろくすんで、日常的、艶もない。でも、そこには情念がある。線から逸脱したストライプの持つ情念。線的な勢いや発展感と、ストライプ的な広がりや停滞の混交した感情。それは決して雄弁ではないが、だからこそ、スカリー自身が「記念碑的」(monumental)と呼ぶような、こちらの気持ちを釘付けにするような執拗さを持っている。

 すでによく知られた画家だが、もっと、もっと、語られていいと思う。

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