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『<少女>像の誕生―近代日本における「少女」規範の形成』渡部周子(新泉社)

<少女>像の誕生

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「少女とはいったい何ものなのか?」


「少女」という言葉は考えれば考えるほど不思議だ。性別を表すと同時に、人間の成長のある特定の一時点を示す言葉ではあり、日常的によく使用される言葉だ。だが、「少女」という言葉からわたしたちが連想することがらはさまざまだ。そもそもいつからいつまでが少女なのか?

「少女」と聞いて、「少女小説・少女マンガ」といった、夢見がちで、瞳の中に星がきらめき、バックに花を背負った女の子が出てくる作品を思い浮かべる人もいるだろう。あるいはすこし前の作品になるが、榎本ナリコの『センチメントの季節』のような、「美少女もの」といったジャンルでの、少女の持つ未成熟でありながら妖しい魅力をはなつセクシュアリティを表現した作品を思い出す人もいるかもしれない。

 同時に、「少女」はこれまで文化的には貶められてきた向きもある。たとえば「少女趣味」といえば、どことなく「(大人であれば)真剣に向き合うに値しないようなお子ちゃま向けのもの」といったニュアンスがあるように思われる。また、少女向け小説でデビューしたとある作家は、出版界における少女小説の軽視を感じていたともいう。面白い作品を書くと「少女小説にはもったいない」いわれたことがあるという話を、とあるパネルで聞いたことがある。

 今なおさまざまな連想をもたらす「少女」という存在は、近代日本の文脈においてどのような歴史的・文化的背景をもっているのか? 少女とはいったいどのように「形成」されるのか? また「少女」はどのような表象によってあらわされてきたのか? こうした疑問に対して、詳細な資料を用いてひとつの答えをもたらしているのが、渡部周子氏の『<少女>像の誕生——近代日本における「少女」規範の形成』である。千葉大学に提出された博士論文を原型とする本書は、「少女」と近代国家の成立をジェンダー規範から読み解いた少女研究である。

 さまざまな一次資料に裏打ちされた本書の論旨は明快だ。これまで社会から遊離した存在、権力の外部にいる存在とされることの多かった「少女」を、次のように規定する。すなわち、明治期に近代国家の形成途上での「少女」たちは、むしろ公教育を通じて社会によって管理されていた存在であり、その期間は「就学期にあって出産可能な身体を持ちつつも、結婚まで猶予された期間」とする。そしてその期間に、三つの規範——「愛情」規範、「純潔」規範、そして「美的」規範によって、「少女」が形成されていったのである。

 本書は二部構成を取っており、第一部はおもに上記の少女の三大規範の形成と意義を、教育関係の資料などからたんねんに辿っている。

 第一部において興味深いのは、前述した少女のための三大規範が、いかに少女のセクシュアリティを管理するために、巧妙に計算されていたかを明らかにしている点である。すなわち、「愛情」規範によって、少女は愛情を持って人に尽くし、献身的であるべきと教育されなければならないが、「純潔」規範はその愛情とは家族(主に夫)に向けられるものでなければならず、結婚までは純潔を守らねばならないとする。もちろんここでの愛情はヘテロセクシュアルな愛を前提としているが、愛の主体であるべき女性は、その「愛情深さ」を濫用してはならず、性的には純潔を守らねばならない、というわけだ。最終的には男性(夫)に愛され、その男性(夫)に尽くす女性を形成するために、つまり愛の主体でありながら、客体にもならなければいけない。そこに第三の規範である「美的」規範が投入されることになる。この「美的」規範は、「精神美は身体美へと可視化されるというロジック」であり、「愛情」規範と「純潔」規範を繋ぐ役割を果たしていたと、渡部氏はあざやかに論じている。

 この「美的」規範を論じた章は、本書の中でもひとつのクライマックスといえるだろう。渡部氏は、井上章一氏の『美人論』で論じられていた、明治期には美人は性格が悪いというイメージがあったとする見解に異議を唱え、明治期に出版された井上哲次郎の『巽軒講和集』を用いて、次のように述べている。

 井上 [哲次郎]は、当時の日本の教育論であまり言われていない重要な女子の任務として、「社会の飾り」「社会の花」として、男性の目を喜ばせることを挙げる。女子とは、「自然界に於ける花」と類似の存在で、女子は驕奢にならない範囲で、「己れを優美」にせねばならず、「己れの飾りを怠り、容貌態度はどうでもよろしい」というのは、女子として正しいあり方ではないと主張する。(中略)井上は女子の価値を、花のような見目の麗しさにあるとみなしており、女子に学問は不可能で、かろうじて可能なのは男性を喜ばせるために習得する娯楽の学問(引用者注:美術、文芸、詩歌、小説、音楽、絵画を指す)だと考えていたのである。(103頁)

 こうした三大規範は、明治期だけのものだろうか? 女性を「社会の花」とする上記の井上哲次郎の意見は、もしかしたら現在もまかり通る意見ではないだろうか? たとえば就職試験の面接時に容姿がよい方が有利だという話を耳にすることがある。仮にそれが事実だとするならば、女性はやはり「社会の花」であるという「美的」規範はいまもなお、有効だと言えるのではないだろうか? 「愛情」規範はどうだろうか。愛情を持って尽くす女性を育てること、他者をケアをする主体としての女性は、昨今のケアワーカーにおけるジェンダーの問題とも密接に絡んでいるのではないか。これらの規範は、決して過去の遺物ではないことも、本書は示唆しているように思われる。

 女性を「社会の花」とみたてるアナロジーは、少女教育においてさらに興味深い教育カリキュラムへと結実することを、渡部氏は指摘する。ケアする主体としての少女と、その少女に相応しいカリキュラムとしての「園芸教育」についての議論は、第二部で展開される少女の表象としての植物(とくに白百合・菫)へとつながっていく。

 もともと日本文学の伝統ではほとんど用いられることのなかった百合が、ダンテのベアトリーチェのプラトニック・ラブの輸入にともなって、純潔な少女の表象になっていった。少女を「地上の星」「菫」にたとえる「星菫調」をうみだした文学美術雑誌『明星』は、表紙に白百合の絵を多く用いていたことで知られているという。そのイメージを作り上げたのが黒田清輝を中心とした「白馬会」の画家であったことを論じた第七章は、第二部における白眉といってよいだろう。木陰に横たわり、グミの美に手を伸ばす少女と、その横に置かれた白百合を描いた黒田清輝の「樹陰」をめぐり、渡部氏は黒田が好んで描いた横臥する女性像が意味すること、その源泉をドラクロワまで辿っている。また、少女の横に置かれた白百合と、少女が手を伸ばしているグミの実という、少女をめぐる植物について、多層的な解釈が可能であることを雄弁に論じている。

 少女マンガの特徴としてしばしば登場人物が「バックに花を背負って登場」とか「瞳の中に数えられないほどの星を浮かべて」といった場面が散見されるが、それは決して単に「少女マンガ」の文法でのみとらえられるべきことではないことがわかる。そこに達するまでに、明治期からの<少女>像の伝統が重なっているのではないだろうか。

 本書は、単に少女がどのように公教育が求めた規範によって形成されたかということのみならず、当時の芸術や文学といった大衆文化の側面からも考察する必要があることを示している。そうした「少女」をめぐる表象が広まれば広まるほど、「少女」は「汚れなき美しい花のような存在」という、一見社会からは隔離されているような表象を獲得するが、実はそれは社会それ自体が求めてやまなかった像であったことがわかるのである。そのことは、本書の終章で渡部氏の次の言葉に表されている。

 一見すると美しく無垢でそれゆえに非権力的に見えるもの、それに魅惑されること、それについて考えるという行為が、不可視な権力を浮かび上がらせることにつながる。(316頁)

 少女とは、やはりいつまでも興味の尽きない対象である。本書は、今後の少女研究にとって必読の一冊になるだろう。


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