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プロの読み手による書評ブログ

『百』色川武大(新潮社)

百

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「地面を掘る」

 まるで文章の下にやわらかい地面があるようだ。どう転んでも、何を書いても、言葉が根を生やして繁茂してしまう。サマになってしまう。そんな書き手がいる。

 色川武大の『百』に収められているのは、これでもかとばかりに語り手が地面をえぐっている作品ばかりである。これ、わざと言ってるな、とか、ちょっと嘘がまじっているな、と思わないでもない。やけにかっこいいな、とか。読者というのは案外冷たいもので、書き手が勝手に自己探求しても、「ああ、そうですか」とやり過ごす気分になることがある。どの作品もそう簡単に感情移入できる代物ではないし、そもそも移入することを求められていない気もする。

 それでも根は生える。不思議だなあ、どうしてだろう、と思ってちょっと紙面から目を離してみたら、次のようなことに気がついた。表題作の「百」の前半に、ひたすら段落が「私は」ではじまる下りがある。

 私はとにかく日々成長していき、父親は逆におとろえ、ある一点をのぞいて私がそう望んでいないにもかかわらず、私たち親子の関係は体力的に逆転していった。父親のヒステリーと争って組み打ちをすると私が勝ってしまうようになったのは十六七の頃だ。

私は幼い時期に、自分が畸型、乃至はそれに近い人間だと思いこんでいた頃があり、父親からその点に関してたえず叱咤され、励まされていた。父親は私に人並みの誇りを持たそうとしてしかめつらしい工夫をいろいろとしたが、それはすべて逆効果で、たとえ何であろうと、畸型ではないとしても、どうあがいても、洗練や、優等や、それらが結晶した結果の祝福にはほど遠い存在だと思わずにはいられなかった。(中略)

 私は級友に対して五分の関係を持つことができなかった。人間以下のもので、だから級友と同じ条件で競争などしてはいけないと思っていた。(中略)

 私は権利という意識を育てられなかった。何事に限らず、強制ということができない。自分には他人に強制できる権利などないと思っている。

 呪詛とも告白ともつかない。メモ書きのようにも見える。ただ、この文章、新たに始まるごとに息を吹き返している感じがする。まるで水泳の息継ぎのように、水面から顔を出して酸素を吸いこむたび、あらたなキックの力を得て、ぐいっと前に進んでいくような書き方なのだ。

 息を吹き返す力の元にあるのが、「私は」という書き出しなのである。「私は」と宣言し、定義し、説明する。そのたびに仕切り直しがされ、あらたに文章に力がみなぎる。「私」を主語にたてることでこそ、私をわかるというやり方。小説にしては、ちょっと直球すぎるかもしれない。アクションよりも観念に傾く。だから、すぐ息詰まる。言えなくなる。でも、息詰まったところで、また、「私は」とはじめる。転ぶのは、織りこみ済みなのだろう。

実は『百』におさめれているのは、「私は」に限らず、「誰々は」で語られる作品ばかりである。怪我をした弟の描かれる「連笑」、老衰で弱った父親を描く「百」など、それぞれの作品に色川と関わりの深い家族の肖像が、おそらくは色川の過剰な描き方ゆえのデフォルメとともに描かれている。

 そういう弟や父と、「私」との会話を読んでいてこれも不思議なのは、ときどきどちらがしゃべっているのか区別がつかなくなることだ。

「二人一緒に帰るのはまずいから、俺だけ先に帰って、十五分ほどして兄貴がそしらぬ顔で帰ってくるんだ。一度、俺が家に入っていったら、親たちの形相が変わってた。箪笥がひとつ空になっているんだ。兄貴が質屋にいれちゃったんだな。俺たちの放埒のために――」

「俺たちじゃない。主に俺のためだ。お前は休みの日だけだから――」

「おかげで、以来ずっと、放埒という奴ができなくなった――」

 私は池の向こうのひょろひょろの柳に眼をやっていた。

 必ず、性格形成に影響がある筈だ、と思っていた。弟のそこをのぞくことを私は怖がって、以降の日々、いつも遠巻きにしていた。そこをのぞきこんでしまえば、とりもなおさず、その下側にある私自身の欠落とまともに向き合ってしまうことになるからだった。

 私は他人事(ひとごと)のようにいった。

「ああいう経験は不能を呼ぶおそれがあるからな」

 弟はうなだれた。

 麻雀小説の書き手だけあって、色川の人間関係はいつも対決的、競争的。主役は張り合う男たちである。でも、そうして対決する同士がいつの間にするっと入れ替わってしまう。主語は「~は」と特定されるのに、どこかの段階までくると交換可能となる。

 そういう想像力の根底にあるのは、父対息子という争闘の図式である。おそらくどの「父親小説」でも共有されていると思える反転可能な図式がここにもある。

父親はあくまで攻めこもうとし、私は頑強に劣等を守った。ここがさらに煮つまれば私も死ぬし父親も殺す。父親が早晩死ぬはずの存在だと思いながら、まんざら冗談でもなく殺意も併せ持っていたのはこの点に関してである。

 その劣等の私が、父親を体力的に組み敷いてしまって、体力ばかりでなく、父親がそれなりに培ってきた内心までも踏みにじってしまったとき、私ははじめて人生というものに触れたような気がした。

 父親の「内心」を踏みにじったときに、はじめて触れる「人生」とはいったいどんなものだろう。色川は、「~は」という形で息継ぎを繰り返しながら、まるで地面に潜りこむようにして文章をつづっていくのだが、そこで剥き出しになるやわらかい地面のことを、色川は「人生」と呼んだということなのかもしれない。

 心地よくなめらかに読む、というわけにはいかないが、潜行しては浮かび上がってくる言葉というのは、妙に、いつまでも、ひっかかるものだ。

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