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『軋む社会』本田由紀(双風舎)

軋む社会

→紀伊國屋書店で購入

「ギシギシと若者の心身を軋ませる構造をみつめるために」

 

 いま日本で進行している、若年労働者に対する、国家、企業が総掛かりになって行っている、大規模な搾取の構造を描いた傑作である。

 著者の本田由紀氏の専門は教育社会学。教育、仕事、家族の3領域にまたがる研究をしている。とくに「若者の現在」、若者の労働環境について関心を持ってきた。

 本書は、この2年間にわたって様々な媒体に執筆してきた論文、コラムをまとめたものである。

目  次:

まえがき

Ⅰ 日本の教育は生き返ることができるのか

  苛烈化する「平成学歴社会」

  格差社会における教育の役割

   <コラム> 教育再生会議を批判する

   <コラム> 議論なき「大改革」

   <コラム> 「キャリア教育」だけなのか?

Ⅱ 超能力主義(ハイパー・メリトクラシー)に抗う

  ポスト近代社会を生きる若者の「進路不安」

  いまこそ専門高校の「復権」を――「柔軟な専門性」を鍵として

   <コラム> 他人のつらさを自分のつらさに

Ⅲ 働くことの意味

  〈やりがい〉の搾取

  東京の若者と仕事

   <コラム> 企業の「家族依存」を正せ

Ⅳ 軋む社会に生きる

  まやかしに満ちた社会からの脱出(湯浅誠さん・阿部真大さんとの鼎談)

   <コラム> 雇われる側の論理

   <コラム> 立場の対称性と互換性

Ⅴ 排除される若者たち

  若年労働市場における二重の排除

   <コラム> 〈不可視化〉と〈可視化〉

   <コラム> 鍛えられ、練られた言葉を

Ⅵ 時流を読む――家族、文学、ナショナリズムをキーワードにして

  現代日本の若者のナショナリズムをめぐって

  「ハイパー“プロ文”時代」がやって来た!(楜沢健さんECDさんとの鼎談)

   <コラム> お母さんに自由を!

   <コラム> 「家庭の教育力」って何?

Ⅶ 絶望から希望へ

  いま、若い人たち

あとがき

初出一覧

 この書籍も、いま“ブーム”となっている格差社会本のひとつ。興味のある人は何冊も読み、おなかいっぱいになっているはず。

 本田氏が他の論者と一線を画するのは、「超能力主義」(ハイパー・メリトクラシー)への言及である。客観的に評価が可能な規準によって、その人の能力を認める、というのが従来の能力主義である。このような能力は、近代になって発達し、官僚組織、企業、専門職において必要なものになっている。現代では、この能力主義に「超」という形容詞がつくような能力が求められるようになっていると、本田は主張している。

 超能力主義=ハイパー・メリトクラシー

 「ハイパー=『超』という言葉を冠している理由は、従来のメリトクラシーよりも苛烈なメリトクラシーと考えるからである。なぜならハイパー・メリトクラシーは認知的な能力(頭のよさ)よりも、意欲や対人関係能力、創造性など、人格や感情の深部、人間の全体におよぶ能力を、評価の俎上に載せるからである」

 ハイパー・メリトクラシーという概念を、私たちがよく知っている言葉に言い換えると「過剰なコミュニケーション能力」である。

 「友達が多いこと」「皆に好かれること」「笑顔がステキなこと」「ファッションがステキ」・・・頭がよいだけではただの能力主義。ハイパー・メリトクラシーとは、頭がよく、さらに人間的魅力にあふれ、不断のパフォーマンスによって、その能力を永続的に証明できること、能力を意味する。

 ある種のスーパービジネスマンである。

 死ぬまで挑戦。生涯現役。

 いつもポジティブシンキング。

 お客さまの笑顔と満足のためならば長時間労働を厭わない。

 仕事こそが最高のエンターテインメントであり趣味。

 本当に好きな仕事であれば過労で倒れることはない。

 

 ワーカホリックな経営者をヨイショするために組まれた、スポンサー企業の広告費をたっぷりもらった経済雑誌特集記事の見出しのような言葉を並べてしまったが、ハイパー・メリトクラシーとはこのような、労働への過剰な暑苦しい賛美を無節操に推し進めていく考え方である。

 

 ワーカホリックなハイパー・メリトクラシーの実践者たちは、社会にその労働観を伝えていく。それを真に受けた素直な若者たちは、自分にコミュニケーション能力がないのは、自分の努力不足であり、自己責任である、と自分を責めながらも努力をし、人柄をよく見せるという測定不可能なスキルを磨きながら、バーンアウトしていくのである。なかには自暴自棄になって、通り魔になる者もいるだろう。犯罪は処罰されなければならないが、犯罪者の絶望をのぞき込む勇気をもつことが、格差社会を生きる私たちの常識になっているのではないか、と思う。

 この若者を過剰な労働に追いやる構造を、グローバル経済による不可避の現実である、という言説を本田は批判する。

「でも、それだけか?

 現在の日本という国における働き方、働かせ方には、他の先進国と比べても、異様な点がいくつも認められる。週あたり労働時間が50時間以上の労働者の割合は、日本が28%で、断トツである。英米などのアングロサクソン諸国が20%前後でそれに続くが、大陸ヨーロッパ諸国は5~6%にすぎない。しかも、日本における長時間労働の比率は、近年とみに増大している。

 また、日本では非正社員の比率が、世界的に見ても高く、かつ正社員の非正社員の時間あたり賃金格差も際だって大きい。正社員の勤続年数は他国と比べて長く、勤続に比例した賃金上昇の度合いは大きいが、仕事への満足度は低い。もしグローバル経済競争だけが原因なのであれば、なぜ日本においてのみ、働き方にこのような数々の異様さが見いだされるのか?」

 憂鬱であるが、見たくない現実を直視しなければ、若者に未来はない。若者が絶望した社会には暗い未来がまっている。大人たちが作り上げた、若者を奴隷のような労働に追いやる構造は強固である。変わることはないように見えるのは無理もない。

 本田は若者たちに社会を変えるために動いて欲しいと語りかける。

「この社会はまだ変わりきれず、変わらなければならないというそぶりは表面的なものにすぎません。ただ、さまざまな萌芽はそこかしこに見つけることができます。

 だから、どうか顔を上げて日々を生き続けて、あなたのいる場所を、この国を、そして世界を、すこしでもましな方向に変えていこうとする静かで確かな動きに、あなたたちの力を貸してください」

 日本型格差社会はギシギシと軋みながら、若者を押しつぶしていく。その軋みの音を聞いたことがある人は、本書のなかに自分自身を見つけるだろう。


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