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『Action/Abstraction: Pollock, De Kooning, and American Art, 1940-1976 (Jewish Museum)』Norman L. Kleeblatt(Yale University Press)

Action/Abstraction: Pollock, De Kooning, and American Art, 1940-1976 (Jewish Museum)

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ユダヤは抽象する?」

 ニューヨーク五番街ユダヤ博物館で、抽象画の特別展が開かれている(Action/Abstraction: Pollock, de Kooning, and American Art, 1940-1976.  9月21日まで)。


 ニューヨークで抽象表現派というと、今さら、という感じがするかもしれない。ジャクソン・ポロックやウイリアム・デ=クーニング、マーク・ロスコといったこの一派を代表する画家達は長らくNew York Schoolと呼ばれ、ニューヨークという街と抽象表現派の精神とは切り離せないものと考えられてきた。近代美術館やメトロポリタン美術館など市内の大手の展示スペースでも、ニューヨーク派の作品には大きな場所が与えられ、象徴的な位置を占めている。富と権力の中心がヨーロッパからアメリカに移った20世紀初頭に、美術の中心もまたパリからニューヨークに移り、その過程が、印象派→抽象派→抽象表現派というスタイル変遷と重なって見える。

 しかし、果たしてそれだけか。

 なぜニューヨークなのか、という問いの有力な答えとなってきたものがもうひとつある。「ユダヤ」である。ユダヤ博物館という場所柄もあるが、今回の特別展にははっきり「なぜ、ユダヤ系が抽象を担ったのか?」というテーマがあった。とくに焦点をあてられるのが、抽象表現派の力強い後見人を自任してきたクレメント・グリーンバーグとハロルド・ローゼンバーグという二人の美術評論家である。彼らが批評家として作った流れを参照しながら、ニューヨーク発の抽象表現派を見直すという趣向が、この企画の大きな特徴である。

 キュービズムや抽象派以降の美術では、交通整理というか、「絵画の見方」のようなものを指南する道先案内人のようなものが必要だった。画家自身もあれこれと理屈を意識し、マニフェストを公にする。それをさらにわかりやすく腑分けする「先生」がやっぱり欲しい。(そのあたりは同時代の文学も同じ) 印象派以降の受容をめぐってニューヨークの近代美術館が道先案内人の役を担ったことはよく知られているが、50年代の抽象表現派についてはローゼンバーグや、とくにグリーンバーグの存在が圧倒的に大きかった。

 なぜ、抽象派はユダヤなのか?この問いに関してふたりが共通するのは、共同体との合一化をめぐって常に逡巡がある、というユダヤ系ならではの問題である。土地に根付いてしまわないこと。歴史の流れに自然と同化できないこと。共同体と自分を重ねることでアイデンティティを確信することのできないユダヤ系が、形あるレディメイドの遺物や風習に違和感を感じ「自分のためだけのスタイル」を模索せざる得ない、その境遇をひとつの極端な形で表現したのが、抽象表現派のラディカルな作風だった、というのである。

 しかし、実際にはふたりの判断は、しばしば対照的でもあった。ロジックと原理に重きを置くグリーンバーグがもっとも強力に推したのは、ジャクソン・ポロック。対して過程や、出遭いや、画家の暗部の表出に注目するローゼンバーグは、混沌の中から画面を浮揚させるデ・クーニングを評価する。

 

 もっと簡単に言い換えると、こういうことである。抽象表現派の作品群を、何でもいいからふたつに分けてみるとする。いろんなやり方があるかもしれないが、ひとつありそうなのは、「ばらけていく作品」と「絞っていく作品」という分け方である。たとえばポロックの有名な「収束」'convergence' (1952)のようなもの。 一見した「わけのわからなさ」や「めちゃくささ」が目につく作品なのだが、しばしその画面の動きにさらされていると、タイトルにも示されているように、そこに強力な原理があるのが感じられてくる。情念が一方向なのである。いや、一方向の感情だからこそ、それが「情念」と感じられるのかもしれない。求心的で、ほとんど禁欲的なほど「何か」を目指しているように見える。たとえばポロックのような暗さはないが、つねに揺るがぬ構成の際だつピカソのような画家でも、このような「絞っていく」求心性は目につく。

 これに対し、デ・クーニングの「阿呆村のニュース」'Gotham News' (1955)。 「阿呆村」と訳されるGothamはニューヨークの俗称でもある(自意識過剰な市民が好んで自分たちのことをcrazyと言いたがるのも、この街ならではかもしれない)。画面の何カ所かにデ・クーニングが絵の具を乾かすのに使った新聞紙の文字がうつっているが、「ニュース」とはこのことらしい。偶然を、画家が活用している。

 この作品も「わけのわからなさ」と「めちゃくささ」においてはポロックに引けを取らない。絵の具の過剰さ、重さも共通する。感情もたっぷり溢れている。でもポロックのように、どこかひとつの地点を目指している感じがしない。おそらく欲望の方向がひとつではないのだ。複数の中心が、奇跡的にバランスをとっている、という感じ、その絶妙さが、訴える。ポロックにもまた、「まさか」という奇跡らしさはあるのだが、それをひとつの意志が、あるいは力がやっているという風に感じさせる。デ・クーニングにあるのは、画面上でそういうことが起きてしまった、という感覚である。

 ところで今回の特別展で筆者にとってとりわけおもしろかったのは、ポロックの妻クラズナーの作品である。男尊女卑(?)で知られる抽象表現派の紅一点、大美術館ならたいていひとつくらいは置いているが、まとめて見る機会はあまりない。グリーンバーグとローゼンバーグはともに彼女の作品を正当に評価しなかったとされるが、妻としてポロックに献身的に尽くす傍ら、実はポロックの作風を批判的に継承した、という見方もされてきた画家である。

 代表作とされる「青と黒」'Blue and Black'(1951-53)のような作品には、ポロックとは対照的に「ばらけていく」傾向を持った作風が表れているのではなかろうか。 ポロックのように「自分、自分、」という感じがない分、クラズナーは実に軽やかにいろいろな実験を手がけるのだが、そこにはポロック的な激しさや重さをそれなりに受け継ぎつつ、それをぱらぱらぱらっと処理してしまう柔軟性がある。

 美しいスタイルにめぐまれたクラズナーは、若い頃はモデルとしても活躍したらしいが、顔については「濃すぎる」というのが周囲の評だった。写真で見ると、たいへん獰猛で、いい顔をしている。

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