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『白暗淵』古井由吉(講談社)

白暗淵

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古井由吉を読んでみよう」

 古井由吉と言えば、かつての文学的青年にとっては神様のような存在であった。「杳子」、「妻隠」、「円陣を組む女たち」といった初期の傑作短篇にしてすでに、一行々々筆写しながら嘗めるように読みたくなるほどの香しさと、力強いリズムと、知的鋭敏さと、さらには物語的な誘惑感とに満ちていた。日本語散文のひとつの究極がそこにはあった。

 筆者も二十代には、「古井由吉の小説なら、すべて読んでる」と宣言できる時期があった。(瞬間的に、だが) 筆者がはじめて書いた、今では恥ずかしくて読み直すこともできない批評めいた作文も、古井作品を何とか組み伏せようとする努力の跡だった。

 しかし、今の文学的青年にとっては、どうやら古井氏の作品は「じじむさい」らしい。何と嘆かわしいことか・・・。「文学」の概念が決定的に変わってしまったのだ。

 古井氏が神様だった時代。

 それは散文で書くことが、「おとな」を目指すことを意味した時代だった。「おとな」の文章とは、すべてを知り、悟り、先回りし、場合によっては生を超脱して、死の世界にさえ踏みこむもの。小説であるということは、知的にも情的にも読者の一歩先を行き、「とても追いつけない」という憧れと嘆息とを誘発したものだった。

 だから、古井氏の作品にはどこか長男的というのか、つねに人より重い荷物を背負っているような重圧が感じられ、また、人より先んじて知り、先んじて諭すような渋面もあった。

 今でもほんとうにすぐれた小説は、「とても追いつけない」という感想を呼び起こすものだろう。でも、その意味はちがう。それがよくあらわれるのは「狂気」の扱いである。西村賢太にも、川上未映子にも(あるいは小島信夫にも)狂気はほの見えるが、その狂気は若々しく、まばゆく、どこか楽しげでさえあって、とにかくフレッシュなのだ。悟ることよりも、驚き、間違え、ジャンプしたり衝突したりする狂気とでも言ったらいいだろうか。

 対して古井作品の狂気は、今の人には変に聞こえるかもしれないが、研ぎ澄まされた「知」であり「智」。そこには老いや滅びの匂いがつきまとい、にもかかわらず、どこかに知恵が芽生えてもいる。古井的狂気は、カーンと出会い頭でぶつかるようなものではなく、饐えたような発酵臭の漂う、いわば成熟と紙一重の、大往生の愉悦につながるものだった。

 その後の古井氏は、むしろ「神様」であることをやめるために書いてきたようにも見える。ある時期からの古井作品は(90年代?)、ことさら「どっこいしょ」というような力感を前面に押し出すようになってきて、それが「私はふつうのひとですよ」というような囁きに、筆者には聞こえた。

 先を行くことよりも、等身大であること。

 古井氏の文章にもともとあった「寝技系」というのか、特有の粘着質はその後いよいよ洗練されてきた。昨年出版された『白暗淵』におさめられた「雨宿り」という短編から印象的な一節を引いてみよう。季節は梅雨。主人公の笹山は、病院に知人の見舞いに行った帰りに通り雨に遭う。相当な大降り。老人が雨宿りしているのが目に入り、つられるようにしてその軒下に身を寄せる。(読むときの注意だが、「誰が」「何を」の関係が途中からわからなくなってきても、かまわず定速度で最後まで一気に読んでみてほしい。)

隣に立つ老人はそこまでの年とは見うけられなかった。老齢の臭いも伝わって来ない。それではほかならぬ自分の身の内にいまだに染みついて抜けきらぬ病室の、病衰の臭いが、雨に打たれた後で生温く火照る肌から発散していたのを、嗅ぐまいとしていたか、と疑ううちに、背後にあった何かの気配がふっと落ちて、その静まりの妙な濃さから、いましがたまで窓の内で男女が交わっていたらしいことに後(おく)れて勘づいた。女の息がいま一度洩れて軒下にふくらんだ。老人を見れば、雨脚に目をあずけたきり、身じろぎもしない。背が張りつめていた。笹山も軒下に駆けこんで濡れた首を拭ってからは、足を踏み替えもせずにいた。老人の無言のうちの戒めに縛られていたようにも感じられた。軒先の滴の跳ね返りを避けて二人とも窓に背を寄せている。窓の磨硝子は夕立の冷気に触れて、内と外から露を結んで濡れ、軒下に立つ人の影を透かせているはずだ。稲妻の光る時には姿形まで浮き立たせる。女は窓へ目をやらなかっただろうか。

 ここまでがいわば助走である。主語が次第に曖昧になり、雨宿りとか梅雨とか見知らぬ老人といった設定とあいまって、雨にけぶるような湿気に満ちた雰囲気の中を、近代以前に文章が逆行しているような印象がある。句読点こそあるものの、句読点が輸入される前の日本語の、呼吸の加減だけで連なっていくような怪しい持続感が持ち味である。

 そうして、段落のいわば「オチ」がやってくる。

それにしても閉めきった窓から男女の交わりの臭いが軒下まで伝わるはずもなく、背中に感じた気配に身の内から誘い出された嗅覚だったのだろうが、どうして穢れた魚の後味だったのか、どうして鳥の鳴き出す間際の空虚の緊迫だったのか、とつい物を問う目を向けると、老人はゆっくりと、深く眉をひそめた。

 ながながと引用したが、ここまでくると、ぐいっとひねられて着地する感じがあるだろう。かつての古井氏はこうした「ひねり」をまばゆいばかりの知的聡明さとともおこなっていたが、このような箇所ではことさらそうしたまばゆさをかき消そうとしているとも見える。音をこもらせるようにして、沈黙すれすれのレベルで語るのである。

 前半の「老人の無言のうちの戒めに縛られていたようにも感じられた」という箇所にしても、最後の「老人はゆっくりと、深く眉をひそめた」といったあたりにしても、文章に肉感が露出している。まさに「どっこいしょ」。見ること、知ることよりも、そういう身体の感覚を際立たせることに眼目がありそうだ。

 古井作品の主要モチーフは、葬儀、病気、迷走、執着、分身・・・ほとんどエドガー・アラン・ポウ的ゴシック小説の意匠を思わせるのだが、じっさいにはぜんぜんゴシック小説という感じはしない。おそらくそれは、日本のものも含めてゴシック的な世界を成り立たせるのが、古井氏の作品に一貫してある「おとな」のベクトルとは正反対の何かだからだろう。

 今や「おとな」の小説を書くのは少数派。たしかに「おとな」になってしまったら、なかなか物語は語れない。しかし、そんなこととは別の衝動で語られる小説があるということを、古井由吉という存在は証明しつづけているのではないだろうか。

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