書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『老人賭博』松尾スズキ(文藝春秋)

老人賭博

→紀伊國屋書店で購入

「世にも珍しい変身譚」

 なかなか強烈な出だしの小説だ。

顔面の内側が崩壊する。そんな奇病を患って少々のことでは動じない自分もさすがに慌てふためいた。

 主人公の金子は、皮膚の内側に浮腫ができてどんどん腫れるという「呪いにかかったような病気」にかかる。原因は不明。顔が醜くゆがみ、マッサージの仕事にも支障がある。ところが、慌てて手術をして皮膚の下の浮腫を取り除き、ゆがんでしまった顔を美容整形で整えてもらったら、こんどはやけに鼻筋も通り、目元もくっきり。元とは似ても似つかない。こうして、「わけもなく陰気な顔」から「わけもなくつぶらな瞳の青年」になってしまった主人公の、いわば変身譚として物語はスタートする。

 ものすごく引きこまれる出だしなのだが、同時にこの先どうするんだろうという警戒感も湧く。ビデオ屋でコメディ映画を借りてくるのが人生唯一の楽しみだという金子が、いきなり喧嘩が強くなって次々にちんぴらをやっつける、などという話になると、ん?SFなの?などとも思う。脚本家と妙な師弟関係を結んでマッサージ師をやめ、映画撮影のため九州へと出発するあたりは、〝珍道中もの〟の風情だ。

 とにかく前半は出だしの主人公の慌てぶりそのままに、ばかばかしさ寸前のエピソードが次々に連なる。実に軽い。しかし、嫌な感じの軽さではない。こちらの予想に反し、バトルだの、復讐だの、秘密だの、陰謀だのといったありがちな展開やサスペンスには収まらず貧乏で、痩せぎすで、病気持ちの人間がたくさん出てくるような、どちらかというとくすんだ日陰の世界が見えてくる。〝人情系〟といってもいい。

 いや、実はバトルや復讐や秘密や陰謀も、あちこちで物語に織り込まれてはいる。クライマックスの焦点は何しろ賭博だから、丁か半か?というわかりやすい緊張感がある。ただ、語り口がたいへん伸び伸びしているというのか、「見事な小説」になろうとする重い自意識のようなものがなく、おかげで、舞台となる九州の田舎町のしぼんだ雰囲気をうまく生かした、がさつで、いい加減で、安っぽくて、運が悪そうな空気のたっぷりと漂う小説世界に仕上がっている。

 それでいて、やけに明るいのだ。とにかくいちいち小ネタが冴えている。「童貞をこじらせている」という金子は酒も飲めない女も知らないけれど、筋肉もりもりでめっぽう喧嘩に強いという相当強引な設定なのにちゃんと物語を進めてくれるし、「いしかわ海」なる名前のグラビアアイドルはその「ふつうさ」がいい。頻出する喧嘩シーンのちんぴらの台詞もいちいちはまっているし、金子に蹴り飛ばされるだけのちょい役の犬なども、筆者はなかなか気に入った。

しばらく歩いていたら、酒屋兼タバコ屋みたいな店が、かろうじてという感じでまだ開いているのを見つけたので、小走りに駆けこむと、店の軒先でバスターミナルで見た野良犬とまだ出くわしてしまった。それを嗅いでどうするんだ、というようなビニールの切れっぱしの臭いをクンクン嗅いでいる。近くで見ると卑屈な顔をした犬だ。蹴りたくなったので軽く蹴り飛ばしてみた。野良犬はキャンと叫んで、真っ黒い尻の穴を思い切り見せながらテテテと走り去った。

 劇中劇に使われる『黄昏の町でいつか』なる映画も、タイトルからしてそのぱっとしない感じが印象的だ。とくにクライマックスで老俳優が言わされる脚本の台詞は芸が細かい。映画は、老人が若い女と力を合わせて田舎町のシャッター商店街を再生させるという筋書きなのだが、おしまいの方に老人がしみじみ人生を振り返って少女に語りかけるというシーンがある。このシーンの撮影でわざとこの老俳優にとちらせ「NG賭博」に勝つというのが賭博参加者である脚本家のもくろみで、そのために脚本家はわざととちりやすいように台詞を書き直すのである。

(改稿前)

「もう、平均寿命超えとるんよ。それなんに、俺はなーんもできとらん。女房にもなんもいい思いをさせきらんで死なれてしもうたし、50年やって来たラーメンも、まずくもないけどうまくもない、みんな近所やけん惰性で食いに来よるだけたい……」

(改稿後)

「もう平均寿命超えとるんよ。それなんに、俺はなーんもできとらん。女房が行きたがってたマチュピチュ遺跡に連れてもいけず、死なれてしもうた。あげんマチュピチュマチュピチュ言うとったんにねえ。50年やって来たラーメンも、まずくもうまくもまずくもない、みんな近所やけん惰性で来よるだけばい、食いに……」


 果たして老俳優はこの台詞をうまく言えるか言えないか。人々は固唾を呑んで見守るのである。実に馬鹿馬鹿しい展開だが、作家の筆はむしろ勢いに乗っている感じで、悪のりとも情愛ともつかない妙な興奮感がストーリーを盛り上げる。

 全体を通して見ると、たしかにどこか斜に構えた小説だ。描かれる世界に対して、まさかねえ、こんなことあるわけないよね、とちょっと突き放した距離感がある。映画制作がメインイヴェントだったり、整形した主人公が仮面をかぶった「偽の自分」を生きている、といった事情も関係するのだろう。すべてが〝ごっこ〟の世界なのである。

 でも、そういう世界をときどき、ぐいっと摑みにかかるような言葉がないわけではない。たとえば親に虐待を受けて「性悪説」を信じてきたグラビアアイドルのいしかわ海は、「世の中の暴力の歴史は悪というより、それをふるうものの「独善」に基づいていると確信する」。その結果、彼女はあえて「偽善」を選ぶことにする。

「だからあたし、心なく人に優しくできるんです。そう自分を訓練してるんです。それってだれも損しないでしょう。心なく優しく、が、あたしが目指す世界幸福のモットーなんです……。」

あるいは金子のお師匠である脚本家・海馬。もともとマッサージ屋で知り合った縁で、お師匠のくせに金子のことを「先生」と呼ぶ。小説の終わり近くで、この海馬が自分の賭博哲学を開陳するシーンがある。

「……先生が次に弁当のおかずのなにを食うか。フライを食うのか、煮物を食うのか。煮物を食う、に100円俺が賭けるとするだろ。そして、先生が煮物を食う。それを神が決定したのだとしたら、俺はそれに100円の値段をつけたって話になる。つまり神の行為を矮小化することで、神の視線の外側に出る。それがおもしろいんだが、なにせ、神はでかいからね。それを相手の遊びだから身も心もクタクタになる」
 

こんなことを言っておいて、金子がなるほどという顔をすると、海馬は「わかったふりしなくていいよ」と白ける。「俺の言ってることなんてほとんど冗談なんだから」。まさにこの小説そのもののような態度ではないか。

 いしかわ海にしても海馬にしても、この〝軽い〟世界の住人として、ペテン師の影を背負った哀愁がある。でも、それでいて、結構はつらつと元気なのだ。しまいには金子も、整形した顔がぐしゃっとつぶれてしまったのに(ああ、やっぱりと読者が思うシーンだ)、けっこう楽しそうに見えるのだった。

→紀伊國屋書店で購入