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『キャッチアップ型工業化論―アジア経済の軌跡と展望』末廣昭(名古屋大学出版会)

キャッチアップ型工業化論―アジア経済の軌跡と展望 →紀伊國屋書店で購入

「アジアと開発経済学を通して、日本を捉え返す」

ナショナリズムを論じる際、最もよく参照されるのはE.ゲルナーからB.アンダーソン,A.スミスに至る国民論だと思う。その問題関心をごく簡単に言えば、以下のようになるだろう。「階級」や「人種」などと同様、あるいはそれ以上に世界へ影響しているはずの「国民」という社会的カテゴリーが、これまですべての人文社会学において「前提」とされ、それ自体が分析や概念定義の対象とならなかったことへ異議を申し立て、この捉えどころのないカテゴリーの歴史的由来を探る。
この分野で行われてきた議論の対立点は、その歴史的由来をめぐるものであり、特に「民族」と「国民」との関係が最大の議題の一つとなった。農業社会から産業社会への移行に「国民」が発生する条件を見るゲルナー、その観点を受け継ぎつつも産業社会化そのものより出版資本主義が可能にした想像力を条件と見るアンダーソン、両者を部分的に批判し「国民」が近代に成立したことは確かだとしても、その成立には前近代から「伝統的」に受け継がれた民族的紐帯の活性化がともなうのだと論じたスミスをいわば三極として、さまざまな人々が「国民」の発生論を論じてきた。

政治学社会学、国際関係論といった旧来のディシプリンに収まらない、やや傍流の思想だったナショナリズム論が世界的に注目を集め始めた背景として、東欧の共産主義政権が相次いで崩壊すると同時に、民族間の激しい対立を招いた1989年というタイミングを無視することはできない。ヨーロッパの内部で民族問題を噴出させたこの過程において、「民族」と「国民」の一致を自明視する思考が批判され、「国民」というカテゴリーを理論的に捉えなおす動きが活発化した。

ところが、日本にいる我々に関心のある、日本自身、また中国や韓国といった周辺国のナショナリズムを考える際、こうした発生論的思考が有用である場面は、あまり多くないのではないだろうか。現在のところ、日韓中それぞれの政治状況は、冷戦期に形成されたイデオロギーが厳然と生きていて、ナショナリズムとはそれとの関わりで考えざるを得ない問題であって、冷戦構造の崩壊を思想面にももたらした動きの一環である東欧革命の衝撃は、この地域には訪れなかったかのようである。
中国は社会主義型の(少数)民族政策を現在でも採用している。また中国も韓国も、いまだ民族と国家が一致しない「分断国家」であり、その一致が希求されている状況で、いわば「脱植民地ナショナリズム」が厳然と生きている。その中で「国民」を相対化するという作業が活発化しなかったのは、故なきことでもない。日本はそうしたナショナリズムの成熟期をすでに過ぎた国家ではあるが、近年の米軍再編成をめぐる議論を見ても分かるように、日本が自らを「従属国家」とみなす傾向がなくなった訳ではまったくない。
では、こうした場面においてナショナリズムを論じるために、いかなる枠組みがあるのか。個別の国家の事情を紹介する書物は数多いが、有用な枠組みを提示する議論はさほど多くない。

末廣昭の『キャッチアップ型工業化論』は、タイを主なフィールドとする著者による、開発経済学の入門書を意図して書かれている。「開発」という概念が重視されるまでの経緯を含めて、これまで行われてきた様々な議論が整理され紹介されている。
私はこの本を、開発経済学と同時に、後発国のナショナリズムの入門書として読んだ。よってこの書評は、やや私の恣意的な読みが含まれる。

著者が本書を通じて「キャッチアップ型工業化」(キャッチアップ=「追いつく」)の特徴としてあげているのは、元々はヨーロッパ内部の後発国であった19世紀ドイツの議論を源流とした、大まかに以下の三点である。
1)政府の経済介入の正当化
2)工業力重視の経済発展論
3)ナショナリズムの鼓舞などイデオロギーの重視

著者はまず、「キャッチアップ型工業化」にとって、最大の議題の一つが東アジアであることを確認する。「東アジア型工業化モデル」は、その内容も議題も、かなりの程度「日本型モデル」をめぐる議論と相同性をもっていた。またこの地域の経済発展が、日本を起点とする技術伝播と、アメリカという巨大市場によってなされてきたという事実により、日本と東アジアとの密接な関係が強調されている。

世界銀行が1993年に出版した有名なレポートの題名である「東アジアの奇跡」は、60~70年代にかけての代表的な「発展途上」地域であったラテンアメリカとアジアのうち、ラテンアメリカが石油危機以後に急速に没落していったのに対し、アジアの方は「アジアNIES」として離陸に成功した成功例であることを示していた。
70年代まで、ラテンアメリカの事例から導き出された「従属理論」が、開発経済学における大きなパラダイムとなっていた。しかし東アジアにおいては、外資だけでなく民族資本(末廣は「地場資本」と呼ぶべきだと提唱している)の台頭が見られたことから、「従属理論」の単純な応用は説得力をもたなくなった。80年代以後はむしろ、東アジアにおける一定の経済発展の成功を前提としつつ、多く権威主義体制をしいていたこれらの国々において、発展が「民主化」をもたらすのかどうかというのが主な論点になっていった。

東アジアの成功に対しては、対照的な二種類の説明があった。すなわち新古典派経済学国家主義者アプローチの二種である。前者は、複数為替レート制、輸入数量規制、関税の歪みなどを緩和して市場メカニズムが正常に働いたことを成功の理由とし、後者は輸出振興政策を重視し、一定の政府介入による「競争環境の整備」を重視する。
特に後者と関係する、開発経済学の重要な概念に、ガーシェンクロンの提唱した「後発性利益」および「プロダクト・サイクル」というものがある。彼は後発国の工業化の要点を以下のように整理した。
1)技術体系導入の後発性利益
2)規模の大きい製造業
3)幼稚産業保護と中央集権制
4)「特殊な工業化イデオロギー」(独の民族主義、仏のサンディカリズム、露のボルシェキズムなど)
ごく簡単に言うと、後発国は先進国がすでに発明した技術をモデルとして援用できるため、技術開発についてはやや有利な状況にある。主に大規模製造業としてそのモデルを採用しつつ、適切な政府介入が可能な集権的体制のもとで発展が可能となる。その際、そうした体制について国民の支持を調達するために、自国の開発を思想・感情面で正当化する「特殊なイデオロギー」が必要である。
そうすると、「技術集約度」の低いものから早く新興国に伝播していくこととなり、中心部(先進国)ではさらなる技術革新が進んでいく、という国際分業体制が構想されることになる。これが「プロダクト・サイクル」論である。本書では、白黒テレビからカラーテレビへの移行を例に、東・東南アジアにおけるこの形成がデータを踏まえて検証されている(49-55)。
末廣は、むろんこの議論は自明視されるべきではなく(もしそうだったら世界中に開発途上国などすでになくなっているはずである)、そうした環境を整備するための、関係する各主体の意志決定や制度整備が検証されねばならないこと、また「技術革新」とは、新技術の創造だけでなく、国内の安価な労働力や資源と輸入技術を「組み合わせる」ことも含めるべきである、と「プロダクト・サイクル論」の発展形を構想している。

東アジア発展に対する楽観論に、見直しを迫ったのが1997年発のアジア通貨危機だった。その原因説明にも、対照的な三つの系統があった。
1)80~90年代に共通して急速に進んだ金融自由化にともない、国際短期資本が無秩序に移動したことが危機の原因であり、実物経済に問題はなかった
2)国内金融制度の脆弱性と金融市場の未発達が原因である
3)輸入誘発的な輸出構造の中で、輸出成長率が停滞した
ともあれ、この過程で韓国を初めとする国々に、IMF構造改革・融資プログラムが適用されていった。 こうした経緯を経て、2001年に世界銀行は「東アジアの奇跡を再考する」という論考を発表し、このモデルの限界にむしろ注目するようになった……というのが現在までの流れとされる。

その中で、私自身の関心とつながりの深いナショナリズムについても、大きな紙幅がさかれている。
著者は、「キャッチアップ型工業化」にまつわるナショナリズムを、歴史的経緯を踏まえつつ「経済ナショナリズム」と「開発主義」の二つに分類している。東南アジアを主なフィールドとする彼によれば、植民地解放の後成立した新興国の経済運営は当初、外国資本を排除した上で、国営・公営企業を活用した工業化を志向する「経済ナショナリズム」にもとづいていた。
しかし技術力などが決定的に不足した状態でのこうした開発は失敗し、インフレ、工業生産の停滞、さらに汚職や腐敗が大きな混乱を招く。これが、建国と同時に輸入された西欧的な議会制民主主義に対する批判を軍や指導者に喚起し、クーデターや一党独裁により政党政治や選挙を大きく制限する新政権を生む。多くの場合、国内外の共産主義勢力に対する危機意識――反共主義――を持ち、急速な工業化の進展を標榜するこれらの政権によって「開発主義」が主張され、推進されることとなった。韓国の朴正熙、タイのサリット、フィリピンのマルコスなどがその代表である。
「経済ナショナリズム」は、植民地からの解放期の抵抗ナショナリズム、「われわれの国民国家」建設を目指す「下からのナショナリズム」の延長上にある。それが挫折した後、国家改造をうたう勢力に担われたのが「開発主義」だった。彼らは強権的な国家運営を行い、「共産主義者」の嫌疑をかけられた人々への弾圧をともなう「上からのナショナリズム」を形成した。しかし同時に、社会政策にも尽力し、豊かな生活を国民に実感させることで、単なる強権的押し付けではなく「成長に向けた国民のイデオロギー」を形成するのに成功した。
しかし1980年代後半から、開発主義はその前提条件の消滅により改革を余儀なくされる。第一に冷戦構造の崩壊であり、それまで途上国に親米的な権威主義政権の存在を認めていたアメリカの政策が転換した。第二に、先進国の長期不況の中で輸出減少が生じ、各国内で経済自由化と規制緩和が進行する。そこにはIMFを中心とする外圧も当然あったが、国内においても民主化機運の進展により、軍事政権が特定の資本家グループを「庇護」することへの批判と新規参入欲求が高まっていたことも大きい。

こうして、経済体制としても国民統合のイデオロギーとしても「キャッチアップ型工業化」の行方は不透明である。しかし著者は、経済活動の根幹がやはり「モノ作り」であること、また旧来の開発主義イデオロギーの影響力が薄れても、経済成長への希求が国民に共有されている状況は変わらないことなどを挙げ、「キャッチアップ型工業化」という問題系の重要性は薄らぐどころかいや増していると述べている。
紙幅が尽きてしまったのだが、産業政策、および「キャッチアップ型工業化」にしばしば伴う「ファミリー・ビジネス」(財閥支配体制など)、およびその中での労働運動の位置づけなどについても、東・東南アジアを横断した多数の資料を用いつつ、詳細な分類・概念定義がなされている。

本書は、この分野を代表する碩学である著者が、東アジア、東南アジアの国々の歴史と現在をめぐる議論を手広く概観・整理しつつ、そこに独自の視点を付け加え、またこうした作業を通じて日本の姿を捉えなおそうとした、内容豊富で多様な読みに開かれた一冊となっている。初学者の教科書としても意図されているようで、内容の重厚さにも関わらず、記述は晦渋さを避けて簡潔かつ明晰である。幅広い読者に通読をすすめたい一冊である。

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