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『心の野球 ― 超効率的努力のススメ』桑田真澄(幻冬舎)

心の野球 ― 超効率的努力のススメ

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「桑田があんなふうにしゃべる理由」

 野球中継の桑田の解説はかなり独特だ。

 現役時代のヒーローインタビューでの、あのぼそぼそしゃべる感じそのまま。くぐもった声は聞き取りにくく思わずテレビのボリュームをあげたくなる。実況のアナウンサーが話をふらなければ平気で黙っている。このあいだも一緒にテレビを見ていた知人が「あれクワタがいないよ? どこ? クワタはどこ? 帰っちゃった? トイレ?」と騒ぎ出した。

 しかも、たまにしゃべれば妙なことを言う。「打たれてしまっても、まず周りに感謝するのです。ありがとう、と心の中で言えばいいのです」。ん? 何なのだ、この解説。どうも調子がおかしい。が、本書にはこの桑田節がたくさん出てくる。

「ありがとう」

 現役時代は恥ずかしくて、とても公に言えなかったのだが、僕は高校からメジャーまで、一球一球、すべてのボールに感謝の気持ちを持ち続けていた。本当に、一球ごとに「ありがとう」と言っていた。

う~ん。そう言えば、桑田はいつもマウンドでぶつぶつ呟いていた。これだったのか。ボールに「ありがとう」と言っていたのか。指導している少年野球チームで子供が盗塁を決めると、桑田はこんなことを言うそうだ。

「いい盗塁だったけれど、バッターがスイングしてキャッチャーの投げるタイミングを遅らせてくれた共同作業で成功できたんだよね。ありがとうという感謝の気持ちをもつことが大切なんだよ」

いずれも「感謝」と題された章からの引用である。野球部カルチャーをふつうに生きてきた人からすると、「うぇ、気持ちわりぃ」と思うような一節かもしれない。この部分だけ読むと、どこかいかがわしくさえある。しかし、本書には一貫した姿勢があり、その背後にははっきりした世界観がある。それは、たとえば自然を扱った「万里一空」という章の次のような一節を見るとよりはっきりしてくるだろう。

 われわれ人間は、この地球で生きているのではない。生かされているのだ。その認識がとても大切。どんなに科学技術が発展したとしても、権力があっても、お金があっても、台風や地震といった天災は防げない。

 自然に敬意を払い、自然を労り、自然に感謝する、自然とともに生きているという心構えがあると、自然さえも味方につけられる気がする。

ここまでくると、ああそうか、と思う。まさに教祖の語り口なのである。人前で口にしたら恥ずかしくなりそうなセリフを、堂々と何の疑念もなく言ってしまえる。まさに教祖の才能である。言葉の水準がふつうの人とは違う。しかも、そこには〝超越的なもの〟に対する信頼がある。まるでロマン派詩人ワーズワスのように〝見えないもの〟について滔々と語ったりもする。これでは宗教ではないか。

 しかし、桑田が何より独特なのはふつうの教祖と違って、その声がひどくかぼそいということである。いったいこの人はどうしてこんな聞き取りにくい声でしゃべるのだろう。野球解説をはじめてもあんまり変わらないじゃないか。どうしてナカハタさんやホシノさんのように、明るく元気に、あるいは堂々と、あるいは偉そうにしゃべらないのだろう。

 そういえば、と思うことがある。ヒーローインタビューの場面を思い浮かべてもらうとわかりやすいのだが、野球選手というのはどんなつまらない受け答えしかしない選手でも、たいてい声だけは明瞭でしっかりしているということである。それは日本野球に〝声を出す〟というカルチャーがあるからだ。小学生の野球チームからはじまってプロ野球に至るまで選手たちはつねに大きな声を出すことを要求される。ベンチにいる控え選手も相手をやじったり味方を応援したり、守っていても野手はピッチャーがストライクをとるたびに「惜しい!」とか「ナイス・ピッチ」とか「ツーアウトだぞ」と声をかけたりする。彼らは声を出すことと引き替えに野球への参加権を獲得してきたのだと言っても過言ではない。

 ところが桑田は何と中学生の頃から、この〝声だしカルチャー〟に異議申し立てをしてきたというのだ。キャッチボールや練習のときにいちいち声を出すのは無駄、そんなことをしたら捕球や投球の動作に集中できない、ましてや試合中の野次はやめるべき。何よりそれは卑怯なことだから…。

 おそらく野球部カルチャーに一度でも染まったことがある人は、「野次こそ野球」と思ってきたのではないだろうか。もちろん、その効能についても多くの人が認知している。桑田も指摘するように、それは軍隊のノリなのである。声を出すことで恐怖心を取り除き、緊張をほぐし、身体と神経がリラックスしたなめらかな反応をするようにし向ける。しかし、桑田はそこに明確にノーを突きつけた。合理的でないから。美しくないから。正しくないから。

 本書の中で桑田は日本野球を発展させるために数々の提言を行っており、その中のいくつかはすでに実行に移されつつあったり、すぐにでも取り入れられたりするものだと思うのだが、この〝声だしカルチャー〟に対する異議申し立てはかなりラディカルなものだ。そしておそらく、桑田にしか提案できないものではないかと思う。そう、あのぼそぼそ声の桑田だからこそ提案できた方法なのである。

 桑田があんなふうな声でしゃべるのは、桑田の野球が徹底的に内面の野球だからである。あの声は人生において、外の世界と言葉で交わるのがあたりまえではなかった人の声なのだ。桑田の声は外の世界とまじわる前に、まず中の世界で発酵し、熟成される。だから、桑田はずばぬけた洞察力でバッターの心理を読むことができる。自分自身の心さえも読むことが出来る。「神の声」を訊くことも出来る。そして、「ありがとうという感謝の気持ちをもつことが大切なんだよ」などという、とても野球モードとは思えないやさしいことも言える。あんな声で直接語りかけられたら、どんな野球少年でもめろめろになるだろう。

 本書でごくさりげなく言及される技術や調整法についてのコメントはどれも非常にすぐれたものだ。たとえばウォーミングアップは円の動きを意識してやるといいとか。子供に守備の動作をさせながら手拍子を打って、そこに音楽が感じられるかどうかをチェックするとか。登板間隔の間の調整法・食事療法など、下手すると論文執筆のためのヒントを与えてくれるかと思った。。

 しかし、教祖たる桑田の面目躍如と思えるのは、何よりその自分への言い聞かせにおいてである。桑田の声は外に向けられる前にまずは自分に向けられたものなのである。その段階のドラマが実に〝濃い〟のである。本書でとりあげられるエピソードの多くにしても――高校進学、一年生夏でのピッチャー昇格、現役引退を決めたときの逸話など――桑田の桑田自身への語りかけをめぐる物語ばかりなのだ。すべて、あの内向きのぼそぼそ声の物語なのだ。桑田は決して外の世界に語りかけるのがうまい人ではなかった。マスコミ扱いもうまくなかった。本書の全体にも、たとえライターの手が加わりきれいに仕上げられた文章になっているにしても、そのぼそぼそさはどことなく感じられる。だからこそ、そこに感動したい。

 では桑田は自分にいったい何を言い聞かせてきたのだろう。これはたとえば小説家にとってももっとも重要な能力であり、これがない人は結局はすごい小説家にはなれないのだろうなと思う。それは、自分に酔う、という能力である。きっと桑田は本来、自分に酔える人ではないのだ。あまりに賢く、あまりにものが見えてしまう。しかし、その慧眼を駆使して桑田は、どうすれば自分で自分に言い聞かせて自分に酔うようにし向けることができるのかを探究し続けてきた。そしてそれを実践してきた。こんなに内向的な野球をする人は見たことがない。しかし、その成果が桑田のあのピッチャーとしての実績として残った。そういうふうな軌跡が見えてくると、下手するとカルトみたいに思える一節があっても、ぜんぜん「気持ちわりぃ」なんて思わないのである。

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