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『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ/岸本佐知子訳(新潮社)<br>『No One Belongs Here More than You』Miranda July(Scribner)


いちばんここに似合う人

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No One Belongs Here More than You

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「いきなり筆で」

 遅ればせながらミランダ・ジュライである。この本、かの「キノベス」でも堂々一位に輝き、すでにあちこちで話題になっている。しかし、こうした熱烈な反応、実は筆者にはやや意外だった。というのも、ジュライの文章の持ち味はなかなか翻訳では伝わりにくいと思えたからである。

 たとえば「階段の男」という作品の冒頭部。深夜、語り手の女性が物音に眼を覚ます。階段に人の足音がするような気がする。それで思わず隣に似ているパートナーのケヴィンの手首を握りしめる、という下りがある。

I squeezed Kevin's wrist in units, three pulses, then two, then three. I was trying to invent a language that could enter his sleep. But after a while I realized I wasn't even squeezing his wrist, I was just pulsing the air. That's how scared I was; I was squeezing air. (33)
I was trying to invent a language that could enter his sleep.なんてことがさらっと言えるところがいい。観念的(to invent a language)だけど官能的(that could enter his sleep)。ボーイッシュで乱暴だけど、急に甘えるような、猫みたいに背中を丸めた言葉遣いになる。

 すごくおおざっぱな言い方だが、英語小説の語りというのは概してテンポがいい。どんどん語り、どんどん進む。ご存じのように日本語の場合は高級感や深刻さを出すために、文章の呼吸を調整しつつさながら間接照明のごとく余韻を使ったりするから、英語とはリズムの作り方が異なってくるのだが、そういう違いを乗り越えて英語の語りを日本語に移すことには翻訳者も慣れている。読み手の方も翻訳文に非日本語的饒舌が入ってくることには寛容だ。いや、日本語そのものがその非日本語的饒舌を模倣することさえある。

 これに対し、ジュライの語りというのは、まさに今の一節がそれをあらわしているのだが、いちいち語り手が「言語を発明」しながら前に進んでいる感じがする。だから、語り口としても言葉が時にボトッと止まったりする。下手に滑走したりしない。この「ボトッ」は日本語的な余韻と似ていそうにも見えるし、違いそうにも見える。

I don't believe in psychology, which says everything you do is because of yourself. That is so untrue. (134)

 たとえて言えば、真っ白い画面にいきなり筆で色を塗っていくような感じだろうか。重ね塗りではない。下拵えもなし。ともかく言ってしまう。それで語り手も「あっ、こんなふうに言っちゃった」なんて思っている。書道や水墨画の筆遣いを想起させなくもないが、それほど〝崇高〟でもない。もっといたずらっぽくて、気まぐれ。そう考えると、この本の訳者として岸本佐知子はこれ以上ないほどぴったりかもしれない。

 上記の二箇所の訳はそれぞれ次のようになっている。

かわりにケヴィンの手首を握ってパルス信号を送ろうとした。まず三回、それから二回、また三回。そうやって、なんとかケヴィンの眠りを破る新しい言語を編み出そうとした。でも気がつくと彼の手首なんか握っていなかった。ただ空気をつかんでいるだけだった。それくらい怖かった。空気をつかむだなんて。(52)

心理学によると、人間の行動の動機はすべて自分自身にあるのだそうだけど、そんなの絶対に嘘だ。(181)
 

英語をぴったりそのまま日本語にできるわけがないから、訳者はどこかで決断を迫られる。この部分の英語と日本語を較べると、そのあたりの「決断」として気づくのは、語りの中の「女」の処理である。「空気をつかむだなんて」とか「そんなの絶対に嘘だ」といった部分、思い切って「女」の分量を多めにしたなと思う。ちょっと色気が増した。原文ではときどきブツッと止まったり、「あら?」と振り返ったりするところに「女語り」の色気を出しているが、日本語訳ではそのあたりを「それくらい怖かった。空気をつかむだなんて」とか「……動機はすべて自分自身にあるのだそうだけど、そんなの絶対に……」といった連続感で拾っているところがおもしろい。

 こうしてみると本書の短編はどれも、この「いきなり筆塗り」の語りを生かしている。この「階段の男」でも、足音の話からいつの間にかふたりの性生活に話題が移り(We both fantasize about other people when we're having sex, but he likes to tell me who the other people are, and I don't.というような小ネタが効いている)、さらには語り手の友達関係の話、ガソリンスタンドでの少年との遭遇というふうに、視界をさっと横切るようなエピソードの連続の果てにオチがくる。読んでいて楽しいのはストーリーの展開というよりも、語り手がときおり小声になったり立ち止まったりして差し挟む言葉のひねりや、そこから漂い出してくるこの作家の世界に対する態度そのものである。

いちばんここに似合う人』に収められた短編を読んでいると、「そう簡単に物語にはなりませんよ」とばかりにプィッと横を向くような負けん気の強い仕草を感じる一方で、語るという行為についての根本的な前向きさのようなものを感じる。とくに「水泳チーム」なんていう作品。80過ぎた老人たちに、洗面器をつかって水泳を教えるという馬鹿馬鹿しい話なのだが、馬鹿馬鹿しいはずの筋なのになぜか盛り上がる。語ることの楽しさのようなものがむくむくと湧きだしてくるのである。

I was the kind of coach who stands by the side of the pool instead of getting in, but I was busy every moment. If I can say this without being immodest, I was instead of the water. I kept everything going. I was talking constantly, like an aerobics instructor, and I blew the whistle in exact intervals, marking off the sides of the pool. They would spin around in unison and go the other way.(17)

わたしは水に入らないでプールサイドに立ってるタイプのコーチだったけど、いっときも休むひまはなかった。偉そうな言い方かもしれないけど、わたしが水のかわりだった。わたしがいっさいを取りしきっていた。エアロビクスのインストラクターみたいに絶えず声を出していたし、きっちり同じ間隔でホイッスルを鳴らしてプールの端を知らせた。するとみんなそろってターンして、反対方向にむかって泳ぎだした。(28-29)
水はないけれど、「わたしが水のかわりだった」(I was instead of the water)なんて随分めちゃくちゃなことを言っているように聞こえるけれど、ジュライの小説を読んだ印象はまさにこれではないかと思う。筋も出来事もかなり大味だけど、一番大事なのは語る「わたし」がいることなのだ。「わたし」そのものが水であり物語であり宇宙である。しかもそれを怒濤のような圧倒的な雄弁で行うのではなく、ちょっと剽軽で、ちょっと意地悪な、ちょっと斜に構えた「わたし」がするところが洒落ている。

 おそらくどの作品にも共通するのは、「恋愛未満」とか「恋愛から外れて」という感覚だ。ちょっと妙で、ちょっとずれている。何か変だなあというそんな直観を、キレのいい言葉でとらえるのがジュライはすごくうまい。

We had loved people we really shouldn't have loved and then married other people in order to forget our impossible loves, or we had once called out hello into the cauldron of the world and then run away before anyone could respond.('It was Romance,' 61)

わたしたちはかつて愛してはならない人たちを愛して、かなわぬ愛を忘れるためにべつの人たちと結婚した。私たちは煮えたぎる世界の大釜の中に向かっておおいと叫び、返事が返ってくる前に逃げ出した。(「ロマンスだった」、89)

People just need a little help because they are so used to not loving. It's like scoring the clay to make another piece of clay stick to it.('Ten True Things,' 138)

人はみな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎていて、だからちょっとした手助けが必要だ。粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいに。(「十の本当のこと」、187)

 収録作品の中でもとりわけお薦めなのは、「何も必要としない何か」(レズビアンの三角関係で敗れた主人公がピンク産業で働く話)、「十の本当のこと」(主人公の女性が上司のパートナー(女性)を誘惑する)、「モン・プレジール」(東洋趣味の男女のややフェティッシュな生活を描く)あたり。実在しない〝妹〟をダシに男が男を誘惑する「妹」はストーリーとしては一番ひねりが効いている。また、手術で除去したはずの痣が後になって浮かび上がる「あざ」は、この短篇集にはめずらしく寓話的だ。

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