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『高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼』<br>『高峰秀子との仕事〈2〉忘れられないインタビュー』斎藤明美(新潮社)

高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼

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高峰秀子との仕事〈2〉忘れられないインタビュー

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昨年の大晦日に飛び込んだ訃報に目を疑った。遂にそのときが来てしまった。その八十六年の生涯の最後のほんの少しだったけれど、暇さえあればその出演映画を観て歩き、著書の多くを読み耽った「最後の大女優」が永遠に旅立ってしまった。


年明けの各紙誌には、いくつもの追悼の言葉が並んだが、欠落感が否めなかった。肝心の人が語っていない。もちろん今は語れないだろう。速報では、十二月二十八日五時二十八分、高峰さんは病室で、最愛の夫、松山善三氏と「一人娘に見守られて逝去」とあった。養女になっていたとは知らなかったが、あの方だなと自然に思った。

斎藤明美さん。十年前だったか、ふらっと入った名画館で、はじめて高峰秀子主演・成瀬巳喜男監督の「浮雲」「放浪記」を観て衝撃を受け、自然の成り行きで傑作自伝『わたしの渡世日記』(<上><下>、文春文庫)を貪り読んだ、その次に手にしたのが、斎藤明美著『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)だった。この本も何度となく読んだが、深く私淑する高峰さんに取材者として出会った著者が、いつしか互いの人間性に深く触れ合って家族同然の間柄になる、奇跡のような真実が飾らぬ筆致で綴られている好著だ。

五歳で入った映画界で五十年。各年代に代表作がある高峰さんは、まことに「大女優」と呼ばれるにふさわしいが、ご本人は早く辞めたい辞めたいと思っていた。因業な養母に「金銭製造機」のようにこき使われる日々。あぶくのような女優の人気に、まとわりついてくる多数の「怪(あや)しの者」たち。それでも、スクリーンの中の「高峰秀子」はニッコリ笑っている。「あれは私ではない」と思い暮らした日々に一刻も早くピリオドを打ちたかった。

だから、多くの女優のようにいつまでも芸能界にしがみつかない。一九七九年の木下恵介監督「衝動殺人・息子よ」を最後に、きっぱり「女優」の幕を下ろした。日本エッセイスト・クラブ賞を受けた『わたしの渡世日記』以後、多数の著書で名文を披露するが、最大の関心事は「人生の店じまい」だった。家を小さくし、多数の映画賞のトロフィーも処分。日がな家にこもって、最愛の夫の食事をつくり、「食う」ように本を読み、ときどき「雑文」を書く、静かな生活。

そんな大女優の孤高の老後に、娘ぐらいの年の記者が入り込んだ。その真贋を射抜く強いまなざし、高潔な生き方に魅せられて、次々と記事を書いた。母の死をきっかけに、母のない子と子のない母の魂の結びつきはいっそう深まる。いつしか大女優と監督を「かあちゃん」「とうちゃん」と呼び暮らすようになっていた。その進行形の報告が『高峰秀子の捨てられない荷物』という稀有な書物である。その言葉の湧き出し方は、沢木耕太郎をうならせた『わたしの渡世日記』(文庫版解説を参照)を思わせるものがある。弱い自分をさらけ出しながら、言葉の「靭さ」とも呼ぶべきものは、たしかに「母」から「娘」のものになったと思える。

この間、「母」が静かに文筆の世界からもフェードアウトしたのと入れ替わりに、「娘」の言葉は湧き出し続けた。『婦人画報』誌上で続けられた連載から、昨年、高峰さんの生き方を「動じない」「求めない」「振り返らない」などのキーワードで読み解く『高峰秀子の流儀』(新潮社)が成った。そして、本書『高峰秀子との仕事1・2』(同)も生まれたが、刊行直前というときの逝去を受けて、著者は「母・高峰秀子の死~まえがきに代えて」という書き下ろしのエッセイで、はじめて「養女」としての心境を明らかにした。それだけでも読む価値のある書物である。

高峰秀子との仕事』の本文は、一記者としての出会いから、最晩年の言葉まで、著者がかかわった「高峰秀子」を伝える仕事の集大成である。取材のエピソードにとどまらず、実際に接した高峰さんの人物像があらためて掘り下げられている。加えて、実際に雑誌に掲載された高峰さんの文章、対談、インタビューなどが丸ごと再録されているのも、ファンにとっては福音だ。晩年は取材も断っていた高峰さんの肉声は、ほとんど全て著者を通じて伝えられたから貴重である。

高峰秀子の捨てられない荷物』を読むと、どうしてこんなに入り込めたのかと思うが、本書で実際の取材の場に即して語り直されると納得する。著者の高峰さんに対する態度は、初対面から遠慮のない言葉も見られるが、誰よりも私淑する気持ちがあふれている。数多くの有名人に取材した著者は、彼ら彼女らの醜い面も見ざるをえなかったが、高峰さんは別格だったという。誰よりも欲望というものが感じられず、平凡な幸福のかけがえのなさを知っている。この人になら全て見抜かれていい、そう素直に思えた唯一の大人だった。

一方、幼いころから取材慣れしている高峰さんは、取材者に対する配慮がずば抜けている(予定時間内で過不足なく話をまとめる、引き受けたときはもう原稿を書いている、など)。が、一緒に仕事をするのは信頼できる相手に限る。贋物と見ると容赦なく遠ざける厳しさがある。それをして「怖い」と見る風潮も記者たちの間にあったようだ。

ところが、著者はちがった。礼を尽くして、尊敬する人の心の襞に寄り添いながら、辛抱強く、その言葉を待つ。いや、ときには甘え、ズケズケとも見えるかたちで懐に飛び込んで行く、その丁々発止のやりとりは極めてスリリングだ。大事なことは、虚飾を捨て去って、全身で、人間と人間として向き合うこと。それが著者が高峰さんから学んだことであり、二〇〇五年の成瀬巳喜男生誕百年に際して、頑ななまでに沈黙を守った高峰さんの言葉を引き出したエピソードは、まるで卒業試験のように読める。

しかしまた、それは誰よりも大事な「母」の静かな日常をかき乱すことでもあった。著者は取材者の立場を選ぶか、家族の立場を選ぶかで苦悩を深める。最後には、はっきり家族の側に立った著者は、書き手として自立することになる。そして、人生で自分の意志で決めたのは結婚だけだと言い切った高峰さんが、最晩年になって下した養子縁組の決断。過去の自分の映像を観ることを嫌った高峰さんだが、死去の二ヶ月前、呼吸困難になって運ばれるまで、松山氏と著者の三人でDVDを観ていたらしい。最後の最後に、最良の書き手にして最愛の「娘」を得て、過去と静かな和解を果たしていたのかもしれない。その余韻に浸りながら…遺族の心情を省みずだが、見事な人生の引き際だったと言わざるをえない。

本書の刊行に合わせて、都内で行われた高峰さんの追悼上映に際して、著者の肉声を初めて聞いた。高峰さんがいかに面白い人だったか、ほほえましいエピソードを交えながら語る明美さんは、ときどき嗚咽をこらえた。あえて自分のイヤなところも見つめながら、人間のいろいろなところを見ている人なのだと思った。この人あってこそ、晩年の高峰さんは過去と折り合えたのかもしれない。『高峰秀子の流儀』に付された「ひとこと」が、高峰さんが生前に公にした最後の文章ということになるのだろうが、こう記す。「斎藤明美サンは、短所だらけの欠陥人間である私をことごとく承知しながらも理解し、限度などぶっ飛ばしてなめるように綴りあげてくれた」と。人間が人間と出会うことの不思議さを感じつつ、明美さんが最後におっしゃった、高峰さんのような人と「同時代を生きられた幸せ」を噛みしめる。

(洋書部 野間健司)


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