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『樹液そして果実』丸谷才一(集英社)

樹液そして果実

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「殺し文句でする批評」

 このところ批評集成の刊行が相次いでいる丸谷才一。7月に出た最新刊がこの『樹液そして果実』である。

 作家や作品の名前が止めどなく出てくる丸谷才一の批評文はメニューの豊富なレストランみたいで、どんどん注文してどんどん食べるという、宴のような祝祭性が楽しいのだが、そんな贅沢をほんとうに生かしているのは、「こんなふうにして食べるとうまいんだぜ」と差し挟まれる一言でもある。

 たとえば食卓に運ばれてきたのが吉行淳之介『暗室』だとする。今時、吉行淳之介なんて、若い人は手に取らないのだろうな、せいぜい『男流文学論』であの3人衆にけちょんけちょんにやっつけられているのを読んだくらいだろうな、なんて思ったりするわけだが、丸谷才一は意外なところに切り口を見つけてくる。曰く、『暗室』を読むと、実在の人物が思い浮かぶ。ただその人物の出し方が実に中途半端で、実名を伏せたり明かしたりして「不統一」である。この「不統一」は「作者の面倒くさがりのあらはれだらう」という話になってくる。

ロマ・ナ・クレじみた技法は、私小説ないしその亜流といふよりもむしろ、作者の面倒くさがりのあらはれだらうと思ふ。彼は多年の精励ののち、かういふなげやりな方法を工夫したのだ。部分的には平気で手を抜いて、白描のままでかまはないところは別に絵具など塗らず、小道具その他は気楽にあり物で間に合せ、しかし本当に大事なところでは存分に力を盡すといふ不思議な小説作法。(382)

 そんな「不思議な小説作法」をキザだと言う人もいるかもしれない。吉行淳之介に拒絶反応を示すのはそういう人かもしれない。しかし、丸谷は機先を制するように言う。

しかし『暗室』の最大の美点は、なげやりと評してもいい書き方で人生について語りながら、そして「ついでに生きている」生き方に多大の興味を示しながら、しかし人生を単純に否定しようとしてゐないことである。古風な虚無感とはずいぶん距離のある、屈曲に富んだ、含みの多い態度で、中田は人生に対応しようとしてゐる。(382)

「古風な虚無感」などとあると、「君、そうじゃないよ」と言われている気になる。丸谷は作家のナルシシスムには厳しい目を光らせる。違う、というのである。もっと「成熟した、ゆつたりとしたものの見方をわたしは吉行さんの描く小説家に感じる」と。そしてそこで、他の評者には決してまねのできないやり方で最後の殺し文句がつづくのである。この一節でむしろ吉行が救われているところがおもしろい。

独創的とは言つたけれど、心に浮ぶ先行作品が一つある。『伊勢物語』である。断章が無造作にはふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもあるあの趣は、『暗室』にどこか似てゐる。そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだらう。もつとも、影響などと言ふつもりはない。第一、『伊勢物語』など読んだことがなからう。ここで一言、そつとつぶやくことにするが、まともな本をあんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である。(385)

 いやいや、という締めの言葉だ。丸谷才一の批評の〝芸〟はこの最後の一節に集約されていると思える。書き出してみると、

①現代と古典とを結ぶ自在な文学史観。

本書の「王朝和歌とモダニズム」では、助詞の「ノ」の使い方を鍵にして『新古今』とマラルメ、ジョイス、ウルフなどが結びつけられる。

②作家の執筆過程や背景に踏みこむときの、ヒョイというような軽み。

「第一、『伊勢物語』など読んだことがなからう」という憶測は、がちがちの伝記主義とはほど遠く、むしろ作品へのアプローチを柔軟にするための迂回路となっている。本書の「批評家としての谷崎松子」という文章は谷崎夫人とのやり取りからはじまっていてびっくりするのだが、それが「谷崎の文体変化は何が原因か?」というなかなか実証の難しいトピックを上手にほぐすための入り口となっている。丸谷は谷崎作品からの引用を見事につなぎながら、松子夫人のラブレターが谷崎に与えた影響の痕跡を読みとってみせるのである。本書では他にも、折口信夫を扱った文章などで興味深い探偵ぶりが発揮されている。

③がくっと脱線。「ここで一言、そつとつぶやくことにするが」と、わきに飛び退くようにして語りに〝ひねり〟を加えるのである。まさに〝芸〟と呼ぶにふさわしい忍者のような身のこなしが丸谷の批評に厚みを加えている。

②については丸谷がもはや文学史上の作家となってしまった人物たちと実際に知り合っていたということもあり(だから「吉行さん」なのだ)、そのへんは羨んだり真似しようとしたりしても仕方ないのだが、顔見知りではなさそうなのにまるで顔見知りのように語られるジョイスのような作家もいるということを考え合わせると、きっとそれが丸谷流なのである。

 本書はテーマごとに「I.ジョイス」「Ⅱ. 古典」「Ⅲ. 近代」「Ⅳ. 藝術」と分けてある。このアンバランスぶりもなかなかおもしろいが、おそらくそれは本書の談論風の文体ともあいまって(実際の講演を元にしたものもいくつかある)、間口の広さと縦横に話題の展開する自在さとを反映している。もちろんどこから読んでもいい本だが、筆者のお薦めは第三部。どの文章も「この料理はこんなふうにして食べるとおいしいよ」という示唆に富んでいて、食欲が増してくる。「文芸評論家」の中には、論ずることにしか興味がなくて、強面で「えい、えい、えい、」と断定していくばかり、肝心の作品はどうでもいいという人もいるが、丸谷のように作品をおもしろがる方法を知っている評者の文章は、ひいては書き手を育てるだろう。それにしても「あんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である」なんていつか言えたらいいなと思ったりするが、でも、下手に口にしたら首を絞められそうな言葉でもある。用心、用心……。


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