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『数学的思考の技術 ― 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(KKベストセラーズ)

数学的思考の技術 ― 不確実な世界を見通すヒント

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村上春樹と数学入門」

 書店の新書コーナーには昔から「あんたでも数学がわかるかも?」的ジャンルがある。はて。それほどみんなが数学をわかる必要があるのだろうか。この間、「日本人の9割は英語がいらん!」というような本が出ていたが、そういうことを言うなら、9割9分の日本人には(たとえ算数は必要であっても)数学は不要なのではないか。にもかかわらずこのようなジャンルが存在するのは、おそらく「数学できないコンプレクス」を刺激されると、つい手が伸びてしまう人がいるからにちがいない。

 実は筆者もそのひとりである。「あんたでも数学がわかるかもよ?」と言われると、つい手が伸びるのだ。でも、たいがいは手は伸びても数頁めくっただけで、「やっぱり無理かも」とあえなく本を閉じる。ところが本書はその話の進め方の魅力に引き込まれて、珍しく通読してしまった。しかも、終わり近くになって、びっくりするような展開があって、いつになく有意義な「数学体験」となった。

 タイトルの通り、この本は「数学」そのものよりも「数学的思考」に重点が置かれている。思わず学校の数学を頭に浮べた人は、心配無用である。冒頭で話題になるのは、「相手の手のうちをきちんと読むこと」の意味。筆者のような凡人はここで、「ああ、そういえばあのひとは必ず計算したうえで行動するよなあ~。なんか、やな感じなんだよね~」といった感慨にふけるわけだが、そこで著者は機先を制してこちらの懐に飛び込んでくる。

……「相手の手のうちを読む」練習を積めば、世の中の見え方が変わってきて、世界の成り立ちはがぜん面白くなる。さらには、人の厳しさや優しさを的確に捉えることができるようになり、他人とうまく協調する道を見つけることができるだろう。「戦略」というと「ずる賢い」というイメージがあるかもしれないが、本質はそうではない。ものごとを「戦略的」に理解することは、人の真意を正確に把握したうえで、自分の本当の気持ちを的確に伝えることにつながるのである。(16)
そう言われればそうかもしれない。でも、それが「数学的思考」と結びつくというのはちょっと予想外。というわけで、この辺りから本書の何とも言えない行き先不明感が強まってくるのだが、それはむしろ魅力的な「暗闇」となってやがては本書の最終章の展開へとつながるのである。

 本書の前半でとりあげられるのは、それほど突飛な話題ではない。給料の決まり方、借金のふくらみ方、共同購入のメカニズム、年金のレトリックなど、お金にかかわることでもあり、それらが数学に縁があるのは驚くべきことではない。著者は身近な話題を素材にしつつ、私たちの直感的な現実認識に潜む誤りを、ごく簡単な数式をベースにした喩え話で説明する。その手際はきわめてあざやかで、思わず「ああ、そうか」と納得する。

 しかし、より興味深いのは、そうした説明の過程で著者が持ち出す概念である。それらははじめは、当たり前のような事柄をわざわざ難しげに言っているだけと聞こえるかもしれないが(しばしば「科学」の陥る陥穽!)、AさんとBさんとCさんくらいしか登場しないようなシンプルな喩え話を通して、そうした概念を立てることの意味が少しずつ見えてくる。

 いくつかあげてみよう。
「私的情報」――誰もが幸せになるはずの共同購入がなかなか成功しないのは、人が自分の欲求を正直に申告しないという法則があるから。だから、ホンネ、すなわち「私的情報」を得るにはコストがかかるという発想が必要になってくる。
「時間不整合性」――実行する前になると、心に決めていたことができなくなる人がいる。これは時間の経過に対してその人が付与する意味が変わるから。「5年後にもらえる15万円」の価値が、時間の経過に伴って変化するのである。こういう人は借金がふくらむ!
主観確率」――人は客観的なデータに基づいた「客観確率」を、自分の心の中で勝手なニュアンスを加えた「主観確率」にすり替える。たとえば「五年後の生存率は70パーセントです」というデータを提示された患者が、それを「死刑宣告」と受け取ってしまうことがある……などなど。

 そうした中でも筆者がとりわけ興味を持ったのは「摩擦」とか「サーチ理論」といった用語である。前者は財産を現金化するのにかかる手間や時間のことを指す概念であり、後者は経済活動を行うにあたって人や企業が必要な情報を得るためのコストを計算にいれた理論のことである。こうした着眼は経済活動のいわばノイズにあたる領域を対象にしているのだが、実際には人間の心理はノイズにこそ左右されやすい。経済活動がどこかで正体不明の心理に根ざしている以上、こうしたノイズを語ることができなければ適切な理論を打ち立てることはできないということである。

 こうした流れから何となく想像できるように、本書は次第に「お金」の話から離れていく。環境と経済の相性の悪さ、ベーシック・インカムの是非、理想の都市づくりといった方向に話が展開する中で比重は「お金」よりも「心理」に置かれるようになる。そして貨幣と言語の密接な関係についての考察を足がかりに、筆者にも馴染みのある領域に焦点が移る。「物語」である。

 人は心に描いた「物語」を元に行動する――これは今さら経済学者に言われなくても、わかることだ。しかし、本書がおもしろいのは、ここでいきなり村上春樹に話が飛ぶことである。そういえば本の帯に「本書はこんな人に向いています」というリストがあって、「物事に対する戦略の立て方がわらかない」とか「給料にも年金にも期待が持てず不安だ」といった項目とならんで、ひょっこり「村上春樹の小説が売れているらしいけど、本当はよくわからない」とあったのをうっすら思い出す。三部構成をとる本書の第3部は「『物語』について、数学的思考をしよう」と題されているのだが、その中心となるのは何と村上春樹論なのである。

 小島の村上春樹論のポイントになるのは、「村上の奥底に『ある種の数学的思考』が存在する」という指摘である。村上春樹論はすでに数多く書かれており、「村上春樹における数のシンボリズム」的な話題はいかにもありそうなものだが、本書の「数学的思考」というのはそのようなことではない。鍵となるのはトポロジーという概念である。この用語も文学研究で最近頻繁に用いられるが、そのほとんどは数学的な意味でのトポロジーとは無縁である。

 筆者がトポロジーという概念を元に導き出すのは、村上春樹の『1Q84』には、数学者が発見した摩訶不思議な空間、すなわち「地続きだが普通の道をたどることでは行き着けない場所がある空間」が描かれているということである。数学のトポロジー概念についての本書の説明は正直言うとやや急ぎ足すぎて素人にはわかりにくいのだが(213~216あたり)、それでも村上春樹についての議論は説得力があった。村上は「隔たり」と「連なり」をもとに新奇な空間を創り出そうとしたというのが著者の解釈なのである。

 その他、村上の「数学的思考」の証拠としてあげられるのは以下のようなものである。①幾何学に基づいた物事の把握(多くの数学者は、たとえ関数を話題にするときにもほぼ間違いなく図形的に思考しているそうだ!)、②論理文風の厳密さの表現、とくに論理展開における「しかるに」の活用(著者の言い方を借りるなら、論理とは命題から出発しつつも、その展開の可能性に重点をおいた一種の「ソフトウエア」なのである)、そして③暗闇への感受性(幾何学はほんとうは目に見えない世界こそを扱うらしい!)といったものである。

 どれもたいへん説得力があるポイントなのだが、実は、本書の終盤で思いがけず村上春樹の名前が出た瞬間に、筆者は「あ、そうだ!」と思ったのである。つまり、説明される前に「イエス」と言ってしまった。それはこの本が実に村上春樹的に書かれていたからなのである。本格的な村上春樹論がはじまる前に、すでに私たちはこの一見数学入門の体裁をとった本に隠匿されていた、村上春樹的なものに向けて導かれていたということだ。何ということだろう。本書自体が村上春樹を演技していたのである。

 そういえば、この本は論理的である一方で、その論理臭を非常に意識的に演出してもいる。小島寛之という著者は、村上春樹の「しかるに」の作用について説明するが、彼自身が「しかるに」の効力を存分に活用してもいるのである。きわめて日常的な話題の中に「仮に~としよう」「すると~となる」「しかし、~なのだ」「このように~というわけである」と論理の道筋を示す標識がリズミカルに挿入されているために、たいへん読み心地がいい。また、2~5の数字をやや魔術的に使った喩え話もいかにも村上的だし、そこに出てくるAさんやBさんやCさんの独特の体臭のなさは、何だか村上春樹の作品に出てくる登場人物に似ている。極めつけは、村上春樹論のただ中に出てくる「女の子」のエピソードである(220)。その一節はこんなふうにはじまる。

ぼくが村上春樹の小説と巡りあったのは、忘れもしない1982年。『羊をめぐる冒険』が発表された年だった。大学の同級生のアパートで、部屋の主であるその同級生の帰りを待っていた。どうして主がいないのか、そして、どうして面識のないその女の子がいっしょにいたのか、もうすっかり忘れてしまったけれど……(以下略)(220)
 すでにこの出だしからしていかにも村上的なのはおわかりかと思う。どういうわけか部屋にいるこの見知らぬ「女の子」と著者はキスこそしないのだが、「村上春樹の新作は読んだ?」「読んでない」「あたし、読み終わって一晩中泣いてしまったのよ」などという会話をかわす。そしてこの「女の子」の発言が妙に気になってしまい、これをきっかけに村上春樹の作品を読み進めることになったという。この展開、まるで村上春樹小説のパロディではないだろうか。

 というわけで、本書にはウロボロスというのか、ミイラ取りがミイラになるというのか、著者自身が村上的なナラティヴに吸収されていくような側面があって、そこもまた読みどころとなっている。通常の数学入門とはちがい、村上的な迷宮とともに最終的には数学の「闇」こそが提示されるのである。一見安心感につつまれているようでいて、さまざまなレベルで発見や驚きを与えてくれる物語的な快楽に満ちた一冊であった。


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