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『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』レベッカ・スクルート著 中里京子訳(講談社)

不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生

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 1951年にヘンリエッタ・ラックスという名の黒人女性が子宮頸癌により死亡した。


 治療の際、本人の同意なしに採取された彼女の癌細胞は、自ら増殖し続け、世界で初めて培養に成功したヒト細胞となった。これがヒーラ細胞である。

 ヒーラ細胞は研究対象として理想的な性質をもっていたため、世界中で培養され、生命科学と医学の進歩を支えてきた。癌治療やクローンなどの研究に利用され、偉大なる社会貢献を果たし、一部の企業や研究所には莫大な利益をもたらしているのである。

 しかし、細胞の持ち主であったヘンリエッタの遺族には、彼女の細胞が採取され保存されていた事実すら長い間一切知らさていなかった。彼らは一銭の利益ももたらされないまま、事実を知った今も、充分な医療を受けられないほどの貧困に喘いでいる。

 これが本書に取り上げられる事実である。

 この事実だけでも非常に興味深いものだが、そこには人種差別や障碍者差別、貧困、教育的不平等といったアメリカ社会の根深い問題が絡み合っていて、ヘンリエッタやその子供たちの人生を通してそれらの問題が描かれる。ヒーラという細胞をめぐる、科学と社会と人間の、壮大なノンフィクションである。

 ヘンリエッタや彼女の遺族には、当然それぞれに生々しい人生がある。彼らにはそれぞれ主張すべき権利があり、意見もある。詳しい説明もないままヘンリエッタを亡くし、さらに自分たちの知らないところで「ヘンリエッタを勝手に商売の道具にされていた」という遺族の思いは痛切だが、著者はヘンリエッタの遺族たちの不幸を声高に扇情するのではなく、他の医療裁判の例を引きながら事実を淡々と伝えてくれる。例えば、ヘンリエッタの細胞が世界中に拡散されるきっかけを作った最初の医師の行動は、金銭的欲望からではなく、純粋に医学の進歩を願ってのものだった。

 しかし、だからといって患者の細胞を勝手に利用することが許されるのかと問われれば、私は返答に窮する。もしもヘンリエッタの家庭が裕福で、遺族が「人類のために」と快諾するのであれば何も問題が無いのかと問われれば、それも私には分からない。

 当時の社会背景というものは、厳密には再現不可能である。医学的常識、科学的観点、社会的常識というものは少なからず時流に左右されるものだから、現代日本で満たされて暮らしている私には「そんな状況あり得ない、信じられない」という感想を軽々に口にすることも憚られるのである。厳然たる「社会」と、揺れ動く「人間の感情」とを前にして、途方に暮れるしかない。

 何事も「君の立場に立てば君が正しく、僕の立場に立てば僕が正しい」。

 そこをうまく乗り越えることは果たして可能だろうか。

 時代の要請、人間の感情、何のために何が最も大切で優先されるべきか、ポーズではなく本気で考えなければならない。それも、冷静に自分の立場や利害を離れて多角的に考えることができなければ、様々な場所で多発的に悲劇が起こるのだと、教えられた。

(大阪営業部 宇田静香)


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