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『巨魁』清武英利(ワック)

巨魁

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「単なる暴露本とは少しちがいます」

 朝日新聞のスクープと連動した暴露本だと思う人もいるかもしれないが、暴露や告発の部分の比重はそれほど大きくない。むしろ清武氏が巨人に在籍した7年あまりに何があったかを、意外と前向きに語った本である。有名な読売新聞社会部にいた元敏腕記者によるものだけあって文章には無駄がなく、盛り上げ方もうまいし(重要場面では山崎豊子ドラマ風の音楽が聞こえてきそうだ)、逸話の挿入や洒落も利いている。細部の描写もいい(とくに密談の舞台など)。何よりおもしろいのは、著者本人の意図を越えた何かをこの本が語りかけてくるということである。

 世の中には「いかにも物語に出てきそうだ」と思わせる人がいる。その一方で、「自分では物語には出てこないが、いかにも物語を語ってしまいそうだ」という人もいる。渡邉恒雄はもちろん前者。清武氏は後者かなぁ、と思う。そんな語り部としての役を全うしようとするかのように、清武氏は自分が物語の主人公になろうとするよりも、登場人物たちを際だたせることに力を注ぐ。

 その描き方には特徴がある。新聞記者だった男が、いきなり野球チームのトップに座ることになって、いろんな不思議な事態に遭遇し唖然とした。どこか東方見聞録的というのか、「ここはいったいどこ?」的な気分がある。もちろんサービスだってある。一部はすでに活字になったものだろうが、契約打ち切りの通告を受ける清原が「僕はここから飛び降ります!」とホテルの部屋で騒ぐとか、FA交渉の際に小笠原が、奥さんからの「夫をよろしく」といった手紙を渡してくるとか、オーナー会議と選手会とがもめたときに、ライバルチームのリーダーの宮本慎也と、交渉相手として「ちょっといい感じ」の信頼関係を築くなど、それ自体として「へえ~」と言いたくなるようなネタも適宜挿入されてはいる。しかし、そうしたエピソードの底流に、「野球選手って、やっぱり不思議な人たちだよね」という距離感があって、安易なスポ根ドラマには流れない。

 よく知られているように、清武氏が巨人で果たして最大の功績は、「育成システム」の導入である。まったく無名だった山口鉄也を筆頭に、松本哲也、陰善智也といった選手も育ち、おかげで「金満体質」と言われたチームにさわやかな風が吹き始めたとも言われる。その山口を清武はこんなふうに評する。

山口は投手に必要な激しい気性を押し隠している。いつもおどおどして自信なさそうだ。上がるとぽっと顔が赤くなってしまい、損をしてきたんだろうなとも思わせる。よほど辛い、あるいは嫌な思いをしたのだろうか、米国の苦労話は口にしない。(99)

 たしかに山口という投手には謎がある。メジャー・リーグの「七軍」にあたるルーキーリーグにいた頃、山口はシーズンが終わると残りの半年は横浜の実家ですごしていた。その間は一人で練習を続けるしかない。清武は当時の山口について、母親に訊いたことがある。

「実家では何を?」

「ジムでトレーニングしたり、家の近くの公園で練習したりしていました」

「練習相手は?」

「一人でやっていたんじゃないでしょうか」

 その公園を探してみた。実家近くの公園にはキャッチボールの相手になるような壁もない。そこからまた山口は歩いて横浜駅近くの公園に行き、ここでようやく壁に向かって一人で球を投げていた。半年間の孤独な練習のあと、春が来るとまた、言葉の通じない米国を転々とした。そんな生活を続けて才能を伸ばそうというほうがおかしい。(100-101)

今の箇所からもわかると思うが、山口の「謎」は、内面の複雑さという尺度でははかれない何かなのだ。言葉的ではないのである。これは大事な手紙を奥さんに書いてもらった小笠原や、小児的な行動を繰り返した清原についてもあてはまるのかもしれないが、言葉の世界で生きてきた清武氏にとっては、彼らの世界は異文化なのだ。言葉の深みと、選手としての存在の深みとが必ずしも直結しない。しかし、小説家であれば、その作品の雰囲気に合わない人物は登場させなければいいのだが、新聞記者はどこまで枠をひろげるかが勝負。わからない人間をこそ、描く。いや、ほんとうは小説家だってそうなのだろう。

 しかし、皮肉なのは清武氏にとっての「わらかない人間」の極致にいたのが、ジャイアンツの選手たちではなく、ほかならぬ渡邉恒雄だったことだ。渡邉は遊撃手と二塁手のどちらが一塁ベースに近いかも知らないくらい野球音痴のくせに、巨人のオーナーとして球界に君臨し、有名な「たかが選手が」発言をはじめ、数多くの週刊誌ネタを提供してきた人物である。(この書評を書いている時点でも「週刊新潮」に「独占手記!清武君に告ぐ」なるものを掲載している。)

 たしかに不思議な人だ。ナベツネ相手になるとさすがの清武氏の文章からもやや冷静さが失われるように思える。必死に書いてしまうのだ。しかし、私利私欲だらけの権力欲のカタマリ、傲慢で、計算高く、けちで怒りっぽい、全くいいところのないような人物なのに、そして清武氏もまさにそうした渡邉像を描ききろうとしているのに、どうも書けば書くほどほどこの人物のツヤというか、妙な輝きが増してしまうところが困ったところでもある。

 こんなに倫理性の欠如した、わがままでせこい人物が、なぜ熾烈な社内抗争をくぐりぬけ、かくも長く読売グループのトップとして君臨してきたのか。本書中、上司として君臨する条件として「部下に恐れられること」というナベツネ自身の発言が引用されているが、独裁を実現するための条件を示す名言に「独裁者たるものillogicalであるべし」との言葉もある(たしかロシアのエリツィン大統領の言葉だったか)。illogicalとは、logicalではない、つまり「非論理的」ということだが、よりわかりやすくは「でたらめ」とか「てんでばらばら」「わけがわからない」との意である。

 独裁者は怒ったり喜んだりする。そうした感情が威力を発揮するのは、その理由がわからないときなのである。無根拠で、唐突で、意味不明。これほど怖ろしいものはない。そういうとき、私たちはただ服従するしかない。しかし、そんな絶対的な無根拠は、他方で部下を楽にもする。考える必要がなくなるから。あきらめるしかないから。

 もちろんいくらナベツネとて、完璧な無根拠を発揮しつづけたわけではない。むしろ、そのテキトーさは、かわいらしいと思えるほどの「わかりやすさ」と紙一重に見えることもあった。清武氏はそのあたりをうまく拾っていく。たとえばキューバの選手をとるために、清武氏が政治家への働きかけを依頼したときのこと。

 私は急いでいた。その日は渡邉が私のために割く時間はない、と伝えられていたので、彼のセンチュリーに乗り込み、渡邉の隣に座って橋本に直接電話するように頼んだ。

橋本元総理カストロ周辺への紹介状のようなものをお願いしたいと思っています。電話を一本お願いできませんか」

 すると、渡邉は自動車電話を取り、聞いたことがないほど丁寧な口調で話しはじめた。

「渡邉ですが、先生にキューバの件でお願いしたいことがありまして」

 橋本とはもともとうまくいっていない、と聞かされていた。だが、電話をかける前のしぶしぶという感じは微塵も感じさせない会話だった。(66)

 ふだん、まわりの人間には「渡邉です」と名乗ることすらせず、電話をかけては「わたなべ!」と怒鳴るだけのナベツネが、かくも卑屈に豹変するというのもおもしろいが、それを計算高さと見るにせよ、かわいらしさと見るにせよ、あるいは許し難い不整合と見るにせよ、今回の騒動の発端となったコーチ人事のようにころころ方針を転換するそのとらえどころのなさが、ここにも共通して見られるのは確かだろう。

 この本を読んであらためて思うのは、渡邉恒雄の力の根源が、この「不整合」にあるということなのである。それは単なる「計算」とか「日和見」といった言葉で説明できるものではない。少し変な言い方をすると、彼は自分ひとりの力だけで、自分であろうとする人間ではないのだ。清武氏と対照的なのはそこである。ケンカになると、すぐ「訴えてやる、裁判にしてやる」と騒ぐのは、まるで「お母さんに言いつけてやる」とわめく子供のようだが、それは渡邉がこれまでにきわめて上手に他人を利用してきたことの証である。遊撃手と二塁手のどちらが一塁ベースに近いかも知らずに、巨人のオーナーになるのもその典型。ようするに知らないことを知らないままでいることのできる人間なのだ。それは一種の強さである。

 清武氏は知り、わかろうとする人間だ。球団代表としてスカウティングや育成の方針を管理し、職員たちに毎日メールで報告書を出させてはそれに細かく返事を出す。上司としては「優等生」とも見える。そのおかげで巨人のフロントも機能しはじめた。本書にビジネス書の側面があるのもそのためで、失敗からいかに学ぶか、いかに人材を発掘するかなど、実行家を自負する清武氏の、そのやり方がかなり具体的に語られている。

 しかし、彼の弱点もまさにそこにあった。彼はあまりに言葉的な人だったのである。だから、言葉の向こう側で生きている人間たちと付き合うにも、最終的に「~を語る」という立場を選択するしかなかった。そういう意味では誰が主人公なのかわかりにくい、あのかなり不思議な記者会見は象徴的だったのかもしれない。会見場で発言権を得た清武氏がしたのは、主人公として君臨することではなく(涙こそ見せたが)、語る人として終始することだった。

何しろ係争の渦中にいる書き手である。本書の中にもあるいはバイアスのかかったことがあるのかもしれないし、必ずしもはっきりとは書かれていない原監督との確執など、語られきれていないこともありそうだが、そうしたことも含め、書こう語ろうとする清武氏の姿勢そのものがすでに多くを語っている。

 ナベツネについて書けば書くほど、逆にその妙な輝きが際だつ。明らかに清武氏自身がナベツネの呪縛から逃れられていないのだ。渡邉恒雄という巨大な不整合はかなり屈強なのである。いくら清武氏が合理主義的な立場から、一貫性とか倫理性とか、あるいは巨人愛といった大義をかかげても、おそらくこの「じいさん」(清武氏や桃井社長による愛称)は、死ぬまで不整合でありつづけるだろう。そして、そんなことまで含めて私たちに読ませてしまうところが、この本の本当のおもしろさなのである。


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