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『すっぽん心中』戌井昭人(新潮社)

すっぽん心中

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「戌井節とは?」

 戌井昭人は独特な節回しを持った作家だ。ぱっぱっと投げやりに話を進める語り口には、馴れ馴れしいような、あつかましいような、ぐりぐりと物語を押しつけてくる強引さがあり、それがとても心地良い。かと思うと芯の部分がさっぱり淡泊で、「え、もうちょっと…」というような哀切感や名残惜しさも感じる。

 戌井節と呼んでもいい。ちょっと詐欺っぽいところがあり、するっと底が抜けるような結末にバカされた気分になる。でも、落語的人情物的な結末にどさっと落着し、安心することもある。本書の表題作「すっぽん心中」はどちらかというと後者。戌井氏の作品の中でもかなりいいものだと思う。

 主人公の田野は、漬け物の配送をしていて若いセレブタレントの女性の車に追突され、ひどいむち打ち症になったばかり。首が曲がらず、おしっこをするときも横向きなので「命中度」が低い。そんな田野が仕事を休んで不忍池でぶらぶらしていると、自称モモなる女性があらわれる。話を聞くと、福岡から上京して以来、男たちにひどい目に遭わされつづけたとか。でも、マッサージはうまいという。そして、「首揉んであげるよ」とあっさりラブホテルに入る。

 ちょっと都合よすぎ?と思う人もいるだろうか。何しろ直線的で要約しやすいストーリーだ。長い沈黙とか、逡巡とか、細々した描写など一切なし。ぐりぐり話が進む。

 ただ、要約からはわからないだろうが、モモの台詞がけっこういいのである。決して意味ありげだったりはしないのだが、いちいちに運動神経が通っていて、読んでいると、飛び出す絵本みたいにぬっとこちらに迫ってくる。たとえば二人が不忍池で出会う場面。田野のクッキーのカスに鳩が群がってくる。どうということのない会話が交わされるのだが、台詞がモモの存在にぴたりとフィットしていて、何だか清々しい。

「餌あげてるんですか?」

「いや、餌、あげてるつもりはないんだけど」

 女の顔は童顔で、愛嬌のある感じだった。

「でも、すごく集まってますよ。餌くれる人と思われてますね」

「クッキーのカス払ったら、どんどん集まってきちゃったんだよ」

「そうか」

「まいったな。こんなに集まってきちゃって」

「気持ち悪いね、鳩」

「うん」

「あたし、鳩、嫌い。お兄さんは好き?」

「おれも好きじゃない」

「ですよね」というと彼女は、突然、「こんにゃろう!」と怒鳴り、鳩を蹴散らしはじめた。田野は驚いた。池を見ていた老夫婦もふりかえってこっちを見ている。彼女はお構いなしに、ハイヒールの靴底を地面にコツコツと激しく響かせていた。(15-16)

「こんにゃろう!」がいい。物語の展開の上でも、「こんにゃろう!」の瞬間は大事で、モモという人の必死な部分、やや大げさな言い方をすると、「どん底の心の声」がちらりと見える。そして後々、この必死さがより明確に出てくることになる。

 むろん戌井氏自身はそんな野暮な見せ方はしない。戌井節の勘所は、ぐりぐり押しつけてくる一方であくまでしらっと淡泊なところ。それは視点人物となる主人公の田野の淡泊さとも重なる。田野は主人公のくせに何だか冷静で、いつも白けていて、セックスしていても、果てても、さてどこまでほんとうに楽しいのか。およそ執着がない。「ただ目の前に起きたことをやり過ごしていくのが人生」(45)だと思っている人なのだ。モモの人生の濃厚さを、「ほお」とばかりにちょっと離れたところから見ていて、モモがスッポンを獲りに行こう!お金儲けしよう!と言い出しても、ふうん、と冷めている。もちろんモモの「どん底」にやたらと感動したりもしない。

 でも、戌井節はそこがいいのである。物語の中心は、この二人がたまたま見たテレビ番組からヒントを得て、モモが幼少時に住んでいた霞ヶ浦にスッポン獲りにいくいわば冒険譚のところにあるが、スッポンを捕まえようとして逆に指を噛まれた田野は「ぐわっ!」とか「痛たたたた」と言うわりに、あんまり抒情的に痛そうではない。あくまで物理的に痛そうなだけ。これに対し「指、もげとらんよね?」というモモの博多弁の方が、どこかしみじみと情感がこもる。博多弁の男っぽく乱暴で、でも女っぽくキュートでもあるところがうまく出ている。

 モモは男に家を追い出されたばかり。金もない。住むところもない。「やっぱりこうなったら、もうフーゾクでもいいかな」などと言っている。まさに人生の「どん底」だが、その「どん底」の見え方が、淡泊な田野の眼を介しているせいか、ベトッとしたものにならない。ヤマ場で田野の指に食いついたスッポンをやっつけるところなど、いささかハリウッド冒険映画的展開ではあるが、すっぽんが物理的にはぐちゃぐちゃな一方、心理的なぐちゃぐちゃには直結しないところがおもしろい。

 モモはすかさず大きな石を拾って、田野の指にぶら下がるすっぽんの尻を持ち上げ、鉄橋の柱に押さえつけて、石ですっぽんの背中を叩きつづけた。すっぽんは田野の指に噛み付いていたが、甲羅が割れて内蔵だかなんだかわからないものが飛び出てきて、噛んでいた指を離して下に落ちた。すっぽんはまだ動いていたが、モモはさっと拾い上げ、田野の買ってきたトートバッグの中に入れた。(48)

 人生の「どん底」にいる人の必死さ。でも、どこかうすら漫画チックで、しかもその向こうに微妙に哀感が漂う。読み応えがある場面だ。それをこんなさっぱりした言葉でやるなんて。

 田野の指からは血がぽたぽた垂れていて、川に流れていった。

 すっぽんの生命力は凄まじく、トートバッグの中でまだ動いていた。するとモモはトートバッグの取っ手を両手で持ち、野球のバットをスウィングするように、鉄橋の柱に何度も叩きつけた。「くしゃっ、くしゃっ、くしゃっ」、鈍い音がトートバッグの中から聞こえてくる。モモは凶暴性が一気に沸点に達したみたいな目をしていた。(48)

 野球のバットをスウィングするように!

何と鮮烈なイメージだろう。あまりに鮮烈すぎて、もう一押しすれば――もうちょっと悪のりすれば――シュールな世界に行ってしまいそうだ。でも、この作品では戌井は我慢して、踏みとどまった。正解だったと思う。同書に収録の「植木鉢」もいい。

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