『The Year of Magical Thinking』Joan Didion(Vintage Books)
「ジョーン・ディディオンの心の風景」
村上春樹の翻訳者であるジェイ・ルービンがニューヨーカー誌のポッドキャストである「New Yorker: Out Loud」(2011年8月30日付)で翻訳文学作品は読むなと言っている。何故なら作品はほかの言葉に移すことはできず、その結果、読者は翻訳者の主観から逃れられないからだと言っている。
これが村上春樹の「1Q84」の訳者からの言葉だ。翻訳は非常に主観的な作業で、読者は翻訳者の脳にある枠のなかにはめられるとしている。
「私のアドヴァイスに従って日本語をマスターした人は少なく、そのため私にまだ何らかの仕事がきていることを幸運に思う」とも語っている。
確かにな〜と僕は思う。特にそう感じられるのが原文でヘミングウェイを読んでいるとき。このなんだか得体の知れないものが言葉の後ろに隠れているあの感じはどう訳しても正確に表すことができるものではないと思う。
そして、今回読んだジョーン・ディディオンの「The Year of Magical Thinking」も訳文では表せない感情が言葉の陰にある作品だ。
ジョーン・ディディオンは言葉の女性だと思う。センテンスは彼女にとってとても大切なものだ。
「センテンスのストラクチャーの変化はそのセンテンスの意味を変える。言葉のアレンジメントは重要だ。そしてあなたが望むそのアレンジメントはあなたの心の中に見つけることができる。心の中のその風景が言葉をどうアレンジしていくか告げてくれ、その言葉のアレンジメントがあなたに、それか私に、その風景のなかで何が起こっているかを教えてくれる」とディディオンは語っている。
今回紹介する「The Year of Magical Thinking」では反復されるセンテンスが数多く出てくる。ディディオンの言葉通り、その繰り返されるセンテンスから彼女の心の風景が透けて見える。しかし、どうして僕の中にその理解が生まれるのかは、言葉では説明できない。彼女の文章は「アート」の世界だ。そのインパクトをは たして訳文で伝えられるものなのか疑問だ。
「The Year of Magical Thinking」。このタイトルは人類学的なものと言える。例えば部族のシャーマンがマジックを使えば死者を蘇えさせることができるというように、この本はディディオンが死についてマジカルな考えを通した約1年間のメモワールといえる。
ディディオンの夫は作家/脚本家ジョン・グレゴリー・ダン。兄に調査報道ジャーナリストであるドミニク・ダンを持つ。
2003年12月30日火曜日夜9時前後、マンハッタンの病院に入院している娘のクィンターナのところから自宅に戻ったディディンオンとグレゴリーは夕食を終え軽く酒を飲み出す。グレゴリーは喋っているが、次の瞬間、無言になる。ディディオンが彼の方を見ると、彼は左手を上げ、身体はぐったりとしている。悪い冗談だと思い「やめなさいよ」と言うが、彼は動かない。
こうして夫のグレゴリーは心臓発作で死んでしまう。
ふたりは夕食を取り、そして彼が消え去ってしまう。何でもない日。そして次の瞬間、全てが変わってしまう。
ディディオンは彼の靴を捨てられない。彼が戻ってきたら靴が必要だと彼女は思う。ディディオンのマジカル・シンキングの年の始まりだ。
一方、クィンターナは一度は回復するが、カリフォルニアで再び生命の危機を迎える(クィンターナも2005年に死んでしまう)。
彼女はジャーナリスらしく「情報を得ることがコントロールを得ることだ」として、医学書、マナーの本、病院からの死亡報告書、物理学者スティーヴィン・ホーキングの文章まで読む。
悲しみ(夫の死)や不安(娘の入院)のなかでディディオンの心の中にどんな風景が流れていったのか。この本はメモワールでありジャーナリズムでもある。
心の中に生まれた風景を描くために、「言葉」の女性であるディディオンは言葉を慎重にアレンジして、彼女に何が起こったのかを私たちに伝えている。
ディディオンの言葉が胸に響いてくる。英語で読める人は是非英語で読んでみて下さい。