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『深海のパイロット—六五〇〇mの海底に何を見たか』藤崎慎吾/田代省三/藤岡換太郎(光文社)

深海のパイロット—六五〇〇mの海底に何を見たか

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 謎めいた人物ネモ船長が主人公たちを連れて世界中の深海を旅する物語「海底二万里」を知らない人はいないでしょう。庵野秀明監督の「ふしぎの海のナディア」の原作であり、宮崎駿監督の「天空の城のラピュタ」の原案でもあり、その他、世界中のクリエイターに大きな影響を与えた物語です。その後いくつもの海洋冒険小説が発表されていますが「海底二万里」を凌駕する物語はまだないと言ってもいいのではないでしょうか。

 この物語の胆は何といっても潜水艦「ノーチラス」です。最大潜航深度は(私が物語を読んだ限りでは)最低でも1万メートル、搭乗可能人数は650名以上。この物語が発表されたのは西暦1870年。それから142年もの月日がたっているにも関わらず、人類は未だ、これを超える潜水船を建造できずにいるという、とにかくものすごい船なのです。

 それでは、今現在「私たちの科学の限界」はどこにあるのでしょうか。実は、その最先端は日本にあるのです。人を乗せて世界で最も潜ることのできる有人潜水調査船を運用しているのは、日本随一の海洋研究機関、独立行政法人海洋研究開発機構(通称:JAMSTEC)。船の名は〈しんかい6500〉。搭乗人数3名が体をぴったりと寄せ合わなければならないほど小さい船ですが、その最大潜航深度は6500メートル、世界第1位です。今から20年余りも前に建造され、たった今も、世界のどこかの海底を投光器で照らしながら、深海の闇の中を這い回るようにして潜航しています。

 なぜ日本が、世界第一位の潜水調査船を持つ必要があったのでしょう。それは勿論、日本が世界有数の「地震大国」だからです。地震とともに生きなければならないこの国には、どうしても6500メートルという最大潜航深度を持つ船が必要だったのです。〈しんかい6500〉は、今回の東日本大震災でも、発生からわずか5ヶ月後の8月、大きな余震の続く日本海溝の海底に人を乗せて潜り、地殻変動によってつくられた亀裂や、大量に発生した生物たちの姿を撮影してきています。(映像はこちら)まさに「地震大国」日本の、維持と誇りを搭載した船だと言っても過言ではないでしょう。

 今日ご紹介するのは、その〈しんかい6500〉のパイロットたちを描いた本です。サイエンスライターの藤崎慎吾氏による第1部、研究者の藤岡換太郎氏による第3部も、ものすごく面白いのですが、私が一番好きなのは、元パイロットで初代潜航長の田代省三氏が語る第2部です。

〈しんかい二〇〇〇〉、〈しんかい六五〇〇〉での私の三一八回の潜航は、それぞれが今でも私の記憶に強く残っています。なぜなら、深海底を我々は何も知らないからです。一回一回の潜航は、「探検・冒険」とまでは言いませんが、行ってみなければどうなっているのか全くわからない世界であることは確かです。人類の英知をかけた科学技術の結晶として、よく宇宙船と潜水調査船は比較されますが、ある意味では宇宙より深海底の方が、謎は多いのではないでしょうか?

〈しんかい6500〉のパイロットには、潜水船を操縦するだけでなく、その船体を丸ごと整備できるだけの技能が求められます。一度海底に潜ってしまったら、どんなトラブルがあっても自力で乗り越えなければならないからです。彼らには深海という極限環境で難しいミッションをこなすという使命があり、同時に搭乗員の命を死守するという責務があります。夢や憧れだけでは務まらない、適性と能力を厳しく問われる職場だということが、この本を読むとよくわかります。

 だからこそ、パイロット自身が淡々と語る深海の世界からは、静かな緊迫感と生々しい空気が、びりびりと伝わってくるのです。誇張した表現はありません。それなのに、なぜでしょう、私はいつも田代氏の文章を読みながら想像してしまうのです。「海底二万里」で潜水艦「ノーチラス」に乗りこんだ主人公に、海の神秘を静かに語るネモ船長の姿を。もしかして、ネモ船長ってこんな人だったのではないか、こんな空気をまとった人だったのではないか、とワクワクしてしまうのです。

 田代氏は、第2部をこんな言葉で締めくくっています。

私はジュール・ベルヌの『海底二万マイル』に登場するネモ船長の「ノーチラス」のような、大きな窓を持った大きな潜水調査船があればと思っています。海底を観察する研究者と一緒に、たくさんの人たちが一緒に潜り、一緒に深海底を感じることができれば、世界は変わるのではないかと、私は本気で考えています。これからの地球の、いや人類の未来は深海底にかかっていると、深海底に三一八回行った私は、本気で信じているのです。

 これは夢物語ではないようです。JAMSTECで働く人々の口からは「〈しんかい11000〉を造りたい」という言葉がよく出てきます。東日本大震災後は、そこに1千メートル足して〈しんかい12000〉になりました。今回のような大地殻変動が起きれば、世界最深部、マリアナ海溝チャレンジャー海淵よりももっと深い場所が、地球上に出現するかもしれないから、だそうです。

 どうです、ドキドキしませんか。千年に一度の大地殻変動は、私たちに海の恐ろしさをこれでもかというほど与えてくれたけれど、同時に、日本がさらなる海洋大国として成長するための大きな原動力を与えてくれたのではないでしょうか。そんな風に思えるようになる一冊です。


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