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『竜の学校は山の上 — 九井諒子作品集』九井諒子(イ−スト・プレス )

竜の学校は山の上 — 九井諒子作品集

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「勇者」という言葉を、私たちの世代に広めたのは、1986年に第1作が発売されたRPGゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズではなかったでしょうか。このゲームが瞬く間に全国の小学生を魅了したのは、単にゲームとして完成度が高かったからだけではありません。中世ヨーロッパの英雄伝説や物語をベースに組み立てられたと思われるこのゲームのシナリオは、非常に質の高いものでした。プレイした子供たちは、少なくとも私の周りの小学生たちはみんな、竜の存在する国、剣を携えた勇者たち、魔王の城、翼の生えた人々のいる世界に瞬く間にひきずりこまれて、夢中になっていました。今も「勇者」という言葉を聞いてドキドキしてしまうのは、きっと私だけではないはずです。

 そんな「ファンタジー」の世界を緻密に描きだした上で、ぺらっと裏返してみせたのが、この漫画『竜の学校は山の上』です。竜やケンタウルスの奥様が牧歌的に描かれた表紙を書店の平台の上で見た私は、幼き日のドキドキ感を思い出し「こんな世界が身近にあったらいいなあ」と懐かしい気持ちになりました。「今売れてるみたいだし買ってみるか」そんな安易な気持ちでこの漫画を手に取った私。しかし、最初の短編『帰郷』の冒頭、魔王を倒して帰ってきた勇者を迎える村人の会話を読むや否や、頬をひっぱたかれたような気持ちになったのです。

「また魔物かい」

「おうよ、ろくでもねえ」

「魔王が死んだっていうのは本当なのかね。魔物が減るどころか以前より多くなったようだ」

 続く短編『魔王』でも『魔王城問題』でも、私が思い描いていたファンタジーの世界は、作者・九井諒子の手によって、あっという間に似て非なる世界へと変貌させられてしまいます。ケンタウルスとして生まれた人々(馬人)といわゆる普通の人々(猿人)たちが一緒に働く会社も、翼を持って生まれてきた女子高生(翼人)のいる学校も、読む前に私が「こんな世界が身近にあったらいいなあ」と想像した、まさにその通りの世界であることに違いありません。作者は私の想像を何も裏切ってはいないのです。しかしその「ファンタジー」が緻密に描かれれば描かれるほど、「日常」の残酷さやるせなさが浮き彫りになっていくのはなぜでしょうか。

 そして、表題作『竜の学校は山の上』。この短編では竜が人によって家畜化された世界が描かれています。しかし、日本唯一の「竜学部」があるという宇ノ宮大学に入学した主人公は、サークルの勧誘にやってきた先輩からこんなスピーチを聞かされ、出鼻をくじかれてしまうのです。

「えー簡潔に申し上げますと残念ながら現在の日本に竜の需要は全くありません。ゲームの世界ではないので。従って皆さんの就職先はありません」

 そこら中に竜のいる世界だったらいいのに。そう思う一方で、しかし、本当にそんな世界があったとしたら、やっぱりこんな光景になってしまうのかもしれない。読み進むうちにそんな気持ちになってきます。「ファンタジー」が現実の世界に現れたとしても、それは瞬く間に連綿と続く「日常」の中に取り込まれてしまうに違いないのです。逆に言えば、私たちが毎日触れている「日常」のあちこちにも「ファンタジー」は内包されているのかもしれません。

 そうなのです。私たちはすでにドラゴンクエストの世界に生きているのです。世界を救って帰ってきた勇者を冷めた視線で迎える村人。戦いの最中は支援しなかったくせにいざ魔王が倒れるとすぐその城を占拠しようと群がる人々。ケンタウルスの同僚の超人的な能力を煙たく思う会社員。翼のある同級生の女の子に将来の可能性を捨てて自分と一緒にいてほしいと願う高校生。竜を利用価値のない過去の遺物として切り捨てようとする社会。そんな光景は私たちの「日常」のそこら中にあふれているではないですか。

 けれど単なる現代風刺で終わらないところが、この漫画のいいところです。過酷な「日常」に取り込まれた「ファンタジー」を生きる主人公たちが溜め息のように漏らす言葉。その一言からは、この世界への優しい愛情があふれだしていました。読み終わった後、私は不思議と自分の生きる世界に温もりを感じていたのです。そして本を閉じた時、作者が、さっき裏返した世界を、そっと元に戻す気配を聞いたような気がしました。


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