「夢」の語り方
●『ねじ式』(つげ義春、小学館文庫)
●『赤タイツ男』(逆柱いみり、青林工藝舎)
●『弥冶喜多inDEEP』(しりあがり寿、エンターブレイン)
皆さん、寝ている時に夢をみますか?
僕はみます。そしてかなりの確率で覚醒したあともその夢を覚えています。人によっては「もう俺夢なんか全然覚えてないね、爆睡しちゃうし。だいたい意味ないしねあんなのは、フン」と鼻息荒く切り捨てる人もいるかもしれないけど、僕は夢というモノがとても好きなのです。あんなに不思議で何もかもがメチャクチャで抱腹絶倒で壮大で、そして時には絶叫しながらとび起きる程のオソロしい世界。
誰にでも経験があるんじゃないかと思いますが、ある時すごく印象深い夢をみて、その面白さを伝えようと夢の内容を意気込んで話すんだけど全然その面白さを伝えられない(そして聞いてる方も全然面白くない)、ということがよくあります。僕が思うに夢というものは「今日ね、こんな夢をみたんだけどね…」といって語るものではないのです。ではどう語るのか?こう語るのです。「今日ね、こんな事があったんだよ…」と。
その瞬間、夢が秘めるストーリー性なき物語が、あっけらかんと降り注ぐ陽光の下をさまよい歩く不安が、物の怪が彷徨する暗い地下道の脇にたたずむユーモアが、純真無垢な残虐が、酩酊と懐かしみを抱いてジワジワと蠢動しはじめるのです。
そんな世界をこの覚醒された現(うつつ)でビジュアルに表現すると、この3作になります。さしずめ「ねじ式」は白昼夢、「赤タイツ男」はいたずらっ子の夢、「弥治喜多」は夢というものにがっぷり四つに対峙した果てにみた夢、という感じでしょうか。いずれも夢の話とは掲げていないけど、それぞれの著者の夢を見事に、まるで「ある日の出来事」の如くに描いたものなんだと思います。
【新宿本店・雄】