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『格安エアラインで世界一周』下川裕治(新潮文庫)

格安エアラインで世界一周

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LCCの台頭」

本書はいわゆるLCC(ローコストキャリア)を乗り継いで、地球を一周してみるという趣旨の旅行記である。LCCはここ30年ほどのあいだに出てきた、格安を売りにする航空会社の総称で、サービスや人件費を徹底して削減することによって、驚くほど安値の航空運賃を実現したことで知られる。日本でもJALの騒動があった折り、旧態依然とした日本の航空事情を指摘するのに、しばしばこのLCCが引き合いに出された。



著者の下川氏は、そのLCCが現実をどう変化させ、またひとびとにどう受け入れられているかを、身をもって体験していく。たとえば、LCCの飛行機は空港の滞在時間をできるだけ減らすために、メインターミナルから離れた場所に着陸することが多い。そして、ほんの僅かの間をおいて、すぐに次の乗客を載せて離陸するのだ。その過密なサイクルゆえに、一度アクシデントが生じると、しばしば代替便への振替もままならなくなってしまう。そうしたリスクを負いつつも、下川氏らはノートパソコンを片手に行く先々で野良電波を拾い、インターネットを通じて安い便を探し求めながら、フィリピンからシンガポール、さらにアテネやダブリンを経てニューヨークまで、慌ただしく駆け巡って行く。最終的に20万円そこそこで世界一周してしまう彼らの旅程は、情緒豊かな旅の対極にある。とはいえ、その荒々しさはそれ自体、世界の航空業界の構造を激変させたLCCに似つかわしいものだと言えるだろう。



だが、本書のテーマはそうした経験談には留まらない。本書から浮かび上がってくるのは、インターネットの台頭によって、旅行会社抜きで顧客と航空会社が直接やりとりする時代が本格的に到来したことである。これまでの格安航空券は、あくまで旅行会社の介在によって、ひとびとの手元に届けられた。しかし、インターネットを使ったLCCは、そのような手続きを省略して、個人をいきなり航空会社に繋げてしまう。LCCは特にヨーロッパを中心にシェアを拡大し、ついに東アジアにまで新しい競争原理を持ち込むに到った。下川氏は、まさに1980年代以降の格安航空券の普及に一役買った人物なのだが、その当の下川氏が、今回はインターネット以降の、ある意味ではより過激な価格破壊の現場を直接体験するのだ。彼のこの振幅はそのまま、ここ30年のあいだ、ひとびとが飛行機という乗り物とどう付き合ってきたかという歴史にもなっている。



下川氏と言えば、私は以前『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年)を読んで感銘を受けたことがある。日本で2、3ヶ月集中的に働いて、後はバンコクのカオサンで、さしたる目的もなく引きこもって暮らす若者。著者は、そうやって日本を「降りて」しまった彼らを「外こもり」と名づける。成長の夢が途絶えた後、日本社会が実現し損ねた「まったり革命」(宮台真司)の可能性を、外こもりの若者たちはタイに見ていたのだと言ってもいいだろう。むろん、それは半ばは虚像にすぎない。日本の落ちこぼれでもタイ社会なら優位に立てる…というのは甘い考えで、現地企業の採用も厳しさを増しているし、彼ら自身も境遇の不安定さを自覚しているからだ。だが、バンコクのまったりした空気と安い物価は、その矛盾をあいまいに包み込んでしまう。下川氏は、バンコクの若い日本人たちが抱える、このいわば「非現実的な現実感」をつぶさに描き出していた。



こういう具合に、『日本を降りる若者たち』が若者の心理と社会の関係を扱っていたとすれば、今回の本は、いわばその「上空」で展開される荒々しいグローバルな力学が扱われている。その新しい力学は、航空機のシンボリックな意味合いをも変えてしまう。これまでの航空会社というのは、良くも悪くも、国の威信を背負ったナショナルフラッグによって代表されていた。しかし、LCCはむしろ都市と都市を繋ぐ。「LCCは国というしがらみとは無縁の航空会社である。空港の使用料が安く、利用者が多い……つまり採算が見込める都市だけに就航する。シンプルで現金な航空会社なのだ。逆に見れば、LCCが就航する路線は、人の移動が多いということになる」(110頁)。つまり、LCCは、できるだけ多くの人間をできるだけ効率的に運ぶということに特化している。そのことは、ひとびとの地理感覚も確実に変えていくだろう。



たとえば、東アジアを代表するLCCであり、ようやく日本就航も現実味を帯びてきたエアアジアのウェブサイトは、なかなか凄まじい。エアアジアの飛行機は、中国語で言えばまさしく「空中巴士(空中バス)」さながら、バンコクシンガポール、クアラルンプール、さらに北京、上海はもちろん杭州などの諸都市を、何と四時間のフライトで一万円程度の格安料金(時期によってばらつきはあるが)で繋いでいるのだ。かつて二〇世紀初頭に岡倉天心が「アジアは一つ」と言ったとき、それはあくまで美学的な理想として掲げられていた。しかし、それから百年後の今日、この標語はある面においては物理的に実現され始めているのかもしれない。



本書はJALの経営難が明るみに出る前に刊行された本だが、ナショナルフラッグに象徴される既存の航空会社が相対化され、世界各地でLCCとの棲み分けが模索されていることは、よく理解することができる。いずれにせよ、たんなる物好きの旅行記に留まらない、非常に示唆に富んだルポルタージュだと言えるだろう。



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