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『水の彼方』田原(講談社)

水の彼方

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「中国新世代の文学」

現代中国が未曾有の経済的発展を遂げていることは、周知の通りである。その発展のなか、文学の領域においても、2000年代以降はこれまでにないタイプの作家が続々と現れてきた。「80後世代」(1980年代生まれの世代)と呼ばれる彼らは、グローバル化と情報化の恩恵を受けた新世代として、中国の文化状況を大きく変えている。ここで言う世代は、日本の世代とは意味合いをかなり異にしている。日本の世代論というのは、なべて心理主義的なものにすぎず、たいして実質がない(だからこそ、○○世代、××世代という即席の名称ばかりが増えていく)。それに対して、中国の「80後」は、前世代とは質的に異なった経験を累積させた世代として捉えられている。そこでは「世代」は、心理というよりは、文化や表現の変化を示すための符牒なのだ。



むろん、一口に80後の「経験」と言っても、その内部の文学的個性はさまざまだが、大きな傾向としてはリアリズムであれファンタジーであれ、何か非常に流体的な世界が好まれるようになっているということが指摘できるだろう。それはさしあたり、中国社会の急速な変化に対応していると考えてよい。平たく言えば、資本主義化する現実社会のそこかしこに穴が開いているのと同様、虚構作品も輪郭があいまい化し、そこかしこに穴が開いているわけだ。



そうした虚構作品の発信者として、ここでは、次の二人の作家に注目しておくのがいいだろう。一人は、今や中国一の富豪作家になった郭敬明(グオ・ジンミン、1983年生)であり、もう一人は本書『水の彼方』の著者である田原(ティエン・ユエン、1985年生)である。



郭敬明は、一言で言えば、ハリウッド的なファンタジーと日本の少女漫画を融合したところで、一種の都市文学を紡いでいる作家である。そのプロットは、たわいないと言えばたわいない。たとえば、都市が膨張するなかで、これまでであれば決して出会わなかったはずのひとびとが出会ってしまい、そこで恋や軋轢が生じる。と同時に、それまで親密だった友人の裏の顔が暴露され、いきなりシリアスな関係に突入することにもなる。こんな具合に、郭敬明の描く少女漫画ふうの主人公は、めまぐるしく変転する関係性の渦中に放り込まれている。それは、見方次第ではほとんど昼ドラ、あるいは韓流ドラマのプロットに近い。ただ、ここで注意すべきは、郭敬明自身が、そのような変転をいわば身をもって生きてしまっていることだろう。彼は、一種の「実業家」として、若者にもなじみやすい出版上の新規な試みを次々と打ち出し、文学の消費のされ方を大きく変えてしまった。そのプロセスではさまざまなスキャンダルも発生し、多くの批判も浴びたが、郭敬明はそれすらも「自己劇化」の素材に変えてしまう。郭敬明の周辺では、まさに虚構に穴が開いているように、現実もさまざまな穴(不安定さ)に満ちており、彼はそれを全面的に享受しているのだ。この二重重ねにこそ、彼の本質がある。



他方、田原もまた10代の頃からミュージシャンとして活躍し、近年は映画にも主演するなど、華やかな活躍を見せている。本書は、その田原による第二作めの小説であり、思春期の少女・陳言(チェン・イエン)を主役とした一種のフェアリー・テイルとして仕上がっている。作品のあちこちには「水」の隠喩がちりばめられ、訳者の泉京鹿が言うように「生物学的な匂い」が漂っている。巻頭には、中国の古典小説『聊斎志異』が引用されつつ、食べてはいけない水草を食べてしまい、幽霊のように水底に隠れ潜んでいる主人公の姿が暗示されている。つまり、陳言は、現実の自分と、幽霊のようになってしまった自分とに引き裂かれているのだ。本書の副題である「double mono」は、まさにその二重性を示している。



実際、生理も始まり、周囲からは性の対象として見られるようになっていく陳言の身体は、大人に向けて確実に成熟している。しかし、陳言はむしろ「水」や「植物」、あるいは「泡」や「魚」といったものに親密な感じを抱いているのであり、最後までそれらから逃れることはできない。この種の「性的身体と自意識の齟齬」というのは、日本では少女漫画において反復されてきた主題だが、田原はその主題を「水」に託すことによって、ある一貫した「気分」を持続させている。実際、水は、世界に否応なく変化をもたらすものでありつつ、同時に陳言という少女にとっては外界から身を守るためのシェルターでもある。世界は変化しつつ変化しない。水の隠喩は、こうした両義性=二重性を示すのにうってつけなのだ。



もっとも、この小説そのものは一編の長い散文詩といった趣なので、何か重厚な物語を期待する読者には向かない。実際、私の目から見ても、田原に限らず、現在の中国の若手文学においては、物語を緊密に構造化するという意志が総じて乏しくなっているようにも思える。このことは、やはり一つの弱点と言わざるを得ないだろう。とはいえ、この小説からは確かに、一つの世代的体験が表現として結晶化しつつある予兆を読み取ることができる。郭敬明が一種の実業家として、現実でも虚構でも、穴の開いた世界を全面的に受け入れているのだとすれば、田原はそうした荒々しい世界に身を晒しつつ、同時にそこから身を守るための物語を紡いでいる(日本ふうに言えば「セカイ系」的だと評してもよい)。郭敬明と田原の織りなすこの振幅が、次なる表現の下地になっていくことは、おそらく間違いないだろう。



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