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『ロボット兵士の戦争』P・W・シンガー(NHK出版)

ロボット兵士の戦争

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「ロボットのもたらす戦争の革命」

先ごろアカデミー賞作品賞ほか6部門で賞を獲得したキャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』は、イラク戦争に従軍する爆弾処理兵を扱った映画である。これまでは戦争映画の主人公というと、前線で闘う兵士か、あるいは後方の作戦室にいる司令官あたりが相場であった。それに対して、ビグローは前線でも司令室でもなく、いわば日常と隣り合わせの「街角の戦場」で活躍する、新しいタイプの英雄を持ってきた。敵をいたずらに殲滅するのではなく、無差別の爆弾テロにおびえる他国の市民を率先して守る主人公、これである。

しかし、映画をご覧になった方は、冒頭の場面、処理兵たちが街角でデカいラジコンのようなロボットを操り、爆弾の有無を確認するシーンがあったのを覚えているだろう。本書の第一章は、まさにそのEOD(爆発物処理)班の片腕として働くロボットを紹介している。今や戦場には、非常に簡単につくれる即席爆発装置(IED)があちこちに仕掛けられていることもあって、その処理に従事するロボットの重要性が急速に上昇しているのだ。『ハート・ロッカー』のロボットは冒頭でいきなりトラブルを起こすが、本書の記述によれば、戦場で使えるロボットはますます多種多様で高機能になっている。

むろん、戦争ロボット(ウォーボット)の役目は、たんに爆発物を処理することだけではない。本書で紙幅が割かれるのは、むしろ戦争における無人システム一般の広がりである。無人装甲ロボットや無人偵察機はもとより、ロボットそのものが一種のデータベースとなり、活動時間・内容の履歴を逐一残しているケースもある。それがフィードバックされて、ロボットの改良や修理がより効率的になるのだ。さらには、市街戦を優位に戦うために、無人ロボットを派遣して、街全体を「デジタル化」するようなことも期待されている。こうなってくると、ロボットはもはや、監視システムの延長というべきだろう。

一般的に言って、技術が発達すればするほど、人間の心理的・身体的な限界が際立ってくる。無人システムの導入は、人間という最大のリスク要因を除去できるという意味で、画期的である。これまでのRMA(軍事革命)は、すべて戦争の「やり方」を変えるものだった。それに対して、ロボットの台頭は「戦争の担い手の能力だけでなく、担い手そのものを変えるのだ」(284頁)。本書では、この変化が法的・倫理的に未知の問題を引き起こすのではないか、という懸念も表明されている。

もともと、著者のP・W・シンガーは『戦争請負会社』や『子ども兵の戦争』などの著作で、戦争の外延があいまいに広がっていることを鋭くえぐり出してきた実務家である。今や国家よりも巨大な軍事企業、あるいは大人よりも危険な子どもが、戦争の担い手として台頭しているのであり、国家が徴発した成人男性どうしが戦闘するという旧来の戦争の常識は壊れつつある。シンガーは、そこにロボットの台頭を付け加えた。実のところ、ロボットは市場で売買できるものでもあって、極端なことを言えば、ある個人やあるグループがロボットを購入し、それを戦場に勝手に送り込むということも不可能ではない。国家は、戦争に参加するべき存在の選択を「独占」(386頁)してきたが、その独占構造はついにほころびを見せ始めている。

こうした状況は、当然私たちの戦争のイメージを変えるだろう。『ハート・ロッカー』は確かに、新しいタイプの戦場と、それに対応する新しい英雄像を明快に提示した。しかし、この映画が「人間の英雄」の活躍を見せるには、実はロボットを冒頭であらかじめ葬っておかねばならなかったのだ。ということは裏返せば、遠からず「人間の出てこない『ハート・ロッカー』」こそが制作されねばならないということだろう。現代の戦場は、急速に変容しているのである。

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