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『文学のレッスン』丸谷才一(新潮社)

文学のレッスン

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「文学の組み換えのために」

1980年代頃から、日本の文芸批評では「近代文学の終わり」が公然と指摘されるようになった。日本社会の大衆化・メディア化が進むなかで、明治以来の文学世界――本書の言い方を借りれば「安下宿に住んでいる文学青年とその延長にある人びとの視野にあるだけの世界」――はややもすれば文壇のお座敷芸に近づき、社会的影響力を失っていったのである。そして、その退潮に伴って、日本文化の母胎も移動した。たとえば、ポップカルチャーに対する昨今の関心の高まりは、日本近代文学の対象領域の狭さに対する、一種の反動とも捉えられるだろう。特に現代の漫画は、「安下宿の文学青年」から遠く離れて社会風俗を貪欲に組み込むことによって、一種の教養的ジャンルとしての性格を持つに到っている。

さて、丸谷才一氏は早くから、日本の近代文学――特に私小説――の貧しさから脱したところで言論活動を展開してきた、珍しいタイプの批評家である。その際に、彼は特に和歌の豊かな蓄積に向かう。さらに、特筆すべきは、丸谷氏が同時に世評高い小説家でもあることだ。日本近代文学の狭さを指摘するだけでなく、自らの文学観を巧みに「実演」してみせること。その両面性が、丸谷氏に独自のポジションを与えている。

本書では、その多面的な活動の基盤にある丸谷氏の文学観が、惜しげもなく披露されている。湯川豊氏を聞き手に、丸谷氏はそこで、長篇小説、短篇小説、詩、歴史、批評、エッセイ、戯曲といった文学の諸ジャンルを縦横無尽に語り尽す。その年齢(1925年生まれ)を考えれば、まさに驚異的な知的体力である。

たとえば、長篇小説は終わったと言われながらも、現代にまでその命脈を保っている。丸谷氏はその理由として、ジョイス、プルーストからラテンアメリカ文学を手がかりに、長篇小説が多くの様式を詰め込めるジャンルとして再生されたことを挙げる。他方、ポオやボルヘスら「知的な操作」を備えた南北アメリカ大陸の短篇小説に対して、日本の短篇小説は村上春樹がそうであるように、一種の「童話」としての作品を育てた。さらには、イギリスの伝記文学には、頑丈な社会に埋め込まれた人間像を描き出すことに精を出し、独自の発展を遂げている……。本書を読めば、この世界にいかに多くの文学的な「型」が存在するか、そしてそれが地域によっていかに異なる適応を遂げたかが了解されるだろう。そして、こうした「型」への意識は、多様性の向こう側へと突き抜けるために、文学に最も必要な事柄の一つなのである。

翻って言えば、現在の日本は地震、およびそれに続く津波原発事故の連鎖のために騒然としている。その圧倒的な現実を前にすれば、文学の言葉は、どうしても色褪せざるを得ない。とはいえ、災害の試練からいかに回復のストーリーを生み出せるかという問題は、21世紀初頭の世界が「大規模災害の時代」であったことを考え合わせれば、必ずしも日本だけに限らず、今や人類に共通の関心事になっているとも言えるだろう。思えば、20世紀の文学は権力との闘いによって彩られた。しかし、今日の文学は、具体的な「敵」の存在しない状態で、いかにダメージを克服し立ち直るかという「復興期の精神」(花田清輝)の手助けをしなければならない。

丸谷氏はかつて『忠臣蔵』に御霊信仰とカーニバル性を見出したが、敗者を鎮めるための祝祭的な性格を備えた文学は、確かに日本には伏流水のように流れているようにも思われる。深刻なダメージを受けた国土をもう一度肯定するために、過去の日本人が、あるいは人類が何を書いてきたのかは、改めて検討される価値があるだろう。そう考えると、本書をはじめ丸谷氏の著作は、確かに、今後の文学の組み換えのための「レッスン」になり得るはずである。

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