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『昭和大相撲騒動記ー天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年』大山眞人(平凡社新書)

昭和大相撲騒動記

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「相撲はただ伝統的ではない」


 震災と原発の問題で忘れられているが、ほんの少し前まで、大相撲の八百長問題がメディアを賑わせていた(ここ数日処分決定に関する報道がされているようだが)。そこでは大相撲が、スポーツなのか、それとも神事なのかが頻りと議論されていた。むろん私は、大相撲をスポーツであると決めつけ、居丈高に八百長批判を繰り返したメディアに対して共感するところはなかった。しかし、相撲は五穀豊穣を祈って催される神事なのだという(ある意味まともな)批評家たちの相撲擁護論にもいささか首を傾げざるを得なかった。なぜなら、そういう伝統的な神事としての相撲を、もはやこの社会の人びとは必要としていないように思うからだ。お相撲さんに、四股をドスン、ドスンと踏んでもらって、豊作でありますようにと一緒に願うような農民的な呪術的感覚を私たちは失っている。だから、相撲は神事であるといくら説明しても、相撲の復活には役に立たないだろう。そんな風に私は思った。

 相撲は神事であるという議論は、あまりにも単純すぎる。確かにそれは神事だったとしても、同時にその異様な巨体を楽しむ見世物でもあり、勝ち負けを競うスポーツであることもまた間違いない。逆に言えば、野球やサッカーが単純に公正なスポーツだとも言い切れない。いま選抜高校野球で、東北地方の青年たちが、懸命に白球を投げたり、打ったりするのを人びとが応援して、東北地方の復興を願おうとするとき、そこには呪術的とも言うべき感覚が潜んでいる。つまり高校野球には、スポーツであるという以上の非合理的な意味が備わっている。あるいは斎藤祐樹宮里藍といった若いピチピチした選手をメディアが追いかけまわすときにも、そこにお相撲さんの巨体をみんなで眺めて楽しむときと同様の、見世物的な性格がある。だからスポーツと宗教性や見世物性は、決して区別できるものではない。

 本書『昭和大相撲騒動記』が教えてくれるのは、大相撲はただ伝統的な神事として維持されてきたのではなく、近代スポーツになろうとするモダニズム的な運動を潜り抜けてきた結果としていま存在しているという歴史的事実である。とりわけ焦点が当てられているのは、昭和7(1932)年1月に関脇・天龍らが起こした有名な「春秋園事件」だ。彼は、春場所の番付発表があった翌日の5日、大井町の中華料理屋「春秋園」に出羽ノ海部屋(西方の力士の大勢を占める大きな部屋だった)の十両以上の力士全員32名を集め、そこで、力士の生活を安定させるために相撲協会への要求決議書を提案してまとめ、そのまま全員で立てこもった。春秋園の庭に土俵を作らせて、ぶつかり稽古を始めると、報道で知った見物人が集まり、陣中見舞いが次々と送り届けられ、彼らは断髪して協会を離脱し、「大日本新興力士団」を結成する。

 

 相撲協会側はこの決起行動に最初うまく対応できず、1月14日からの春場所を中止せざるを得なくなった(幕内の主要な力士がほとんど抜けてしまったのだ)。それに対して、新興力士団には新たに14名の力士、5名の行司、それに有名なアナウンサー松内則三も加わって、2月1日から中根岸に急ごしらえで作ったテント張りの相撲場で場所を開催した。世間の注目も集まって、この時点で天龍たちは相撲協会を圧倒する勢いを持っていた。3月には大阪場所、その後東北、北海道、北陸、京都、九州と全国を巡業して人気を集めた。このときとりわけ人気だったのは、彼らが始めた(スポーツ的な)新しい競技方法である。つまり、東西制や番付制といった伝統的な興行スタイルを排して近代的な個人競技に変え、力士を3クラスに分けて、そのクラス内で総あたりの一回勝負をし、その下位の3名を次のクラスの上位3名と対戦させるとか、ファンの要望に応じて特定の力士同士の連続5回の対決(随時挑戦試合)をするといったことを試みたのだ。

 だが結論から言えば、彼らの相撲改革運動は失敗し、徐々に相撲協会に帰参する力士も現れ、ついには昭和12年の春に解散することになった(逆に言えば満州巡業などをして、5年以上にわたって「関西相撲協会」を名乗って存続したわけだが)。なぜ失敗したのか。著者の大山眞人は、次のように言う。「新鮮味の追求は同時に『つねに新しいものを開発しなくてはならない』という泥沼にはまり続けることを意味した。たった一つの十五尺の土俵上に、無限の新鮮味を求めることは、自殺行為に等しい。『伝統の相撲』に勝てるのはほんの一瞬でしかなかった。天龍の誤算はここにあった」(143-4頁)。つまり相撲の神事性を取りはらって、モダンな格闘技としての相撲のありようを追求することの困難が、彼ら自身を追い詰めていったというのだ、例えば、同時代の尾崎士郎は、彼らの相撲は、同じ対戦の繰り返しなので段々と同じ部屋の稽古のように見えてしまった(ガチンコを目指すことが逆に八百長であるかのように見えてしまった)と言っている(『相撲を見る眼』ベースボールマガジン社)。

 しかしだからといって、やはり伝統的な相撲は強かったという単純な話には終わるわけではない。そもそも、天龍らの改革が起きる直前の昭和初期には、モダニズム文化の隆盛のなかで、相撲は古臭いものとしてすっかり人気を失い、銀座で力士が歩いていると、通行人が侮蔑的な目で眺めるほどだったという。観客数も減少しており、天龍らが生活困難から改革を訴えることは歴史的必然だった。それにこの事件の後に相撲が人気を取り戻したのは、春秋園事件で大勢の力士が脱退したために新入幕となった双葉山が、天龍らの行動に負い目を感じつつ、決して「待った」をしないような(明治45年には一取組で54回という記録があるほど「待った」は日常的だった)、近代的な相撲道を徹底的に追求して、昭和11年1月場所から昭和14年1月場所まで驚異の六十九連勝を果たしたからなのだ。

 さらにその双葉山は、昭和32年には理事長になって、天龍が果たせなかった相撲協会の近代化に昭和43年まで着手する。相撲専修学校の設立、力士の給料制、部屋別総当たり制など、私たちが知っている現在の大相撲の形は、この時津風理事長(双葉山)による改革の結果出来上がったものだった(茶屋制度廃止は果たせずに死去)。その意味で、いまの相撲はただ伝統的なのではなく、間違いなく天龍が要求した近代化の方向へと変革されたからこそ残っている。

 しかし、そのような近代化では変わらない普遍的な問題もある。その一つが八百長問題だろう。これについては、本書の書評を超えた考察が必要になるので控えておく。ただ改革運動に敗北した天龍が、昭和16年には、満州での相撲普及の功績が認められて相撲協会に復帰したという驚愕の事実を付け加えておくことにしよう。そして戦後もTBSラジオの相撲中継や大相撲ダイジェストの解説者として活躍したのだという。これこそ、日本社会そのものの八百長的構造ではないか。そうした、江戸時代にまで遡った相撲の歴史的説明とは違って、ついこの前まで常識だったがゆえに忘れられている、盲点のような歴史的事実(まるでプロレス史のようだ)をさまざまに教えてくれる意味で、本書は実にユニークで面白い。


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