書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『佐伯祐三 新潮日本美術文庫43』(新潮社)

01zou →紀伊國屋書店で購入

「水ゴリをしてもやりぬく
 きっと俺はやりぬく」

モンマルトルの丘には早朝に行くといい。
成田に戻る便は午後遅くなったので、出張中で自由になる時間は帰国する日の午前しかない。

チェックアウトは12時なので、荷物を部屋に残し、コーヒー1杯で外に出ると朝のしめった匂いがする。ケーブルカーのタイミングが合わなければ、歩いてでもいい、サクレクール寺院に上がる。ここがパリでお気に入りの場所、いつも来てしまう。パリの街並がチムチムチェリーで見渡せる。遠くにはエッフェル塔、Bonne journee, Paris...

その横をぬってテルトル広場に向かうが、観光客相手の絵描きもなく、昨夜の騒ぎの椅子を片付ける人と、デッキブラシでタイルの路地を掃除する人だけ。ダリ美術館はまだ開いていないが、ディスプレイを覗き込むのがいつものパターン。その路地のつき当たりには幼稚園があって、先生に駆け寄る子供達、それを見送る若いお母さん達は井戸端会議もつかの間で、見るからにこれから仕 事のパリジェンヌ。何かCMを見る感じで。

多分、佐伯祐三も歩いたと思う。
藤田嗣治もそうか、荻須高徳もそうか。でもやはり佐伯祐三にシンパシーを感じる。
「水ゴリをしてもやりぬく」
このセンテンスは、佐伯祐三そのもので、毎朝シャワーを浴びながら、いつも思い出す。

どんよりと曇ったパリの空の下で、彼は何を感じたのか。
いつも、いつも、パリの空の下は、彼らの苦悩に満ちている。

ムーランルージュに抜ける坂道を下る。カンカンのリズムに盛り上がる高らかな笑い声がフェイドアウトすると、アコーディオンが聴こえる。多分、佐伯もそうやって暮らしていたに違いないと思う。何が現実なのかどうでもよくなる瞬間。

佐伯が見たパリを見たい、といつも思う。
佐伯が感じたパリを感じたい、といつも思う。

成田に戻る便は、いつも佐伯かブラマンクかを引きずる。機内で画集を開くと、何かいつもバックグランドを感じて熱いものがこみ上げてくる。それが指標でもあって、要はその感じがなくなったら自分も終りだ、と。でもカフェの風景は、次に行く時までパリに置いてくることにしている。

クタバルナ、
今に見ろ。
水ゴリをしてもやりぬく、きっと俺はやりぬく
やりぬかねばをくルのか、
死ー病ー仕事ー愛ー生活
(1968, 1978, 1980、佐伯祐三展画集から)

追記:
弟の祐明が20歳で亡くなった時、23歳の佐伯祐三はライフマスクを作っている。当時、本人も吐血したのではないかと言われている。1980年、渋谷で行われた佐伯祐三ブラマンク展で実物を見た。安らかなようでいて、死を覚悟しているようでいて、しばし足を止めたのを覚えている。
私の高校の近くに「モランの寺」という彼の作品が飾られている。受験勉強が行き詰まると、よく見にいった。夕日が差し込むガランとした薄暗い美術館が妙に心地よかった。

→紀伊國屋書店で購入