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プロの読み手による書評ブログ

『その日のまえに』 重松清 (文藝春秋)

その日のまえに →紀伊國屋書店で購入

「私の老後の夢は案外単純だったりします」

こうして窓からマンチェスターの風景を見ていると、日本でのバタバタの生活を恥ずかしく感じたりします。最近は何だか、慌ただしい殺人的なスケジュールの生活にドップリで、頭に浮かぶ無数のハイパーな感覚が整理しきれなくなってきていて、その昔、カウンセラーに、自分の才能を優先するか生活を優先するか、どちらも辛いかもしれないけど、一つ一つ全て正直に考えてみなさい、と言われたことを思い出しています。
今週はこの風景を見ながら少し自分をリハビリしなければと思っています。何れにしても何かこう、自分の感覚に満足出来ない辛い状況が続いています。でも、こうして風景を見ていると「そう言えばそうだったなあ」とこっちの生活のリズム感を少しずつ思い出したりしています。公園を老夫婦が手をつなぎながらゆっくりゆっくり歩く風景、それはこっちにきて初めて出した手紙にも書きましたね。でももう4半世紀も前のことですけど。
でもここには、私の原点、原風景があります。あの時も辛かったけど、今の辛さとちょっと違います。

その昔、毎月愛読していた雑誌 Music Life にロックミュージシャンのカップルという特集があって、例によってジョンレノンとオノヨーコが並んだ写真とかが出ていました、その中にデュアンオールマンが歩いている写真が出ていて、彼に負けず劣らずのロングヘアでタイトなジーンズの奥さんが少し遅れて後ろから歩いていて「今さら手なんかつなげるかよ」とのコメントがありました。

私の老後の夢は案外単純だったりします。
老夫婦がゆっくりゆっくり歩く風景。
でも、今さら手なんかつなげるかよ、とか強がりながら。

健康のためなら死んでもいい、と言えばサンプラザ中野っぽくなりますけど、彼も走る走る俺達とか歌いながらフルマラソンランナーになりましたけど、そこにはそれなりの理想とする健康状態があります。
(「痩せ方上手-サンプラザ中野の簡単“健幸”マニュアル」(講談社))

最近、早朝や深夜にウオーキングをしている夫婦や女性の仲間をよく見かけます。これが男性の仲間というのを見ないから、ここに男女の違いを見ますが、ママさんバレーがあって、パパさんバレーがないようなもので。
さて、ジョギングというのも何で、あれは元来一人でやるもので、年を取ったらジョギングなんて心拍数を見てなければ無酸素運動になったりして逆に健康に良くありませんよ、と人間ドックの女医さんに注意されましたが。そのウオーキングにしても、早朝や深夜に見るウオーキングは、ペチャクチャchatしてたりで、chatしないまでも無言で首にタオル巻いてたりで、そんなの誰だって出来て、自分達だけの秘かな楽しみもへったくれもないし(下品な表現ですみません)こういうのは私の老後の夢とは少し違います。

ゆっくりゆっくりでいいんです。でも一つだけ大切なことは、その時にはiPodかiShuffleかi携帯かどういう形になっているか分かりませんが、要はウオークマンでもいいのですが、同じサウンドを2人で聴きながら、ゆっくりゆっくりウオーキングというものです。
手なんかつながなくても、サウンドでつながっているような。
年を取ればそれなりに言葉がおっくうになるもので、そんな時は、Zeppelinでも井上陽水でも、はたまた、やすきよの漫才でもいいので、そんなの共通のサウンドを聴きながら、もどかしい言葉を気にせずに同時性を楽しむというのが、夢だったりする訳です。NHKニュースでも良いですが、せめてカビラさんのFMくらいで行きたいもんです。株の相場とかはやめときましょう。

要は、音楽を聴きながら街を歩くと、その風景すら違って感じるもので、それを共有したいというものです。ただ、やすきよを聴きながら街を歩いたことないので、今度試してみます。まあ逆に渋い落語の方が良いかもしれません。

でも、その疑いもない大前提、手をつなぐ(つながなくても)相手がいるという当たり前の風景が、手をつなぐ間もなく崩れて行く。その、手をしっかりつないでいても「その日」がやってくる、ということ。

「だから、僕たちは日常を生きた」
そして
「僕たちはもう、その日を生きている」
そして「その日」は必ずやって来る。

何か入試問題に出そうな文章は、惜しげもなく、泣く、泣く、泣く、泣く・・・そして泣き続ける。この手の作品にしては、泣きを出しすぎます。
でも、これを入試に出して、試験中に学生さんが泣いていたら合格にしてあげましょう。
でも、何か、泣きたい時に、泣きたい映画を泣く覚悟でレンタルで借りてくるような、でも、そんな、泣ける自分の快感、人生の重さ、日常の大切さ、そしてリハビリ、かな。そうだ、何が気になっていたかって、本を読みながら映画館にいる気分になっていたんだ。泣く、というより、自分をさらけ出しながら読みふける。でも、電車で読むとまずいです。隣りの子供が、この人、何泣いてるんだろうって、覗き込む。ごめんね、だらしのないおじさんで。

はじめは、どこまでこのテンポを引きずるのだろうという展開。ロッキーの前半のような?
そして「その日」から一気呵成に来る。
連作短編7編は、やはり「その日のまえに」から読み始めて、最後まで読んでから、最初の「ひこうき雲」に行くといいかもしれない。エピソード5〜7から1に戻る感じで。何か聴いた事のあるタイトルの深い意味を探索するのはやめましょう。

そして、私のリハビリテーションツアーはもう少し続きます。

その同時性は、喫茶店で向き合うのではなく、バーのカウンターで並んで同じ方向を見るような。なので、映画館とか動物園とか美術館とか、はたまた車の中とか、横並びで同じ方向を見る位置づけというのが、時に必要だったりします。視線は面と向かうと「カツ丼でも食うか」の取り調べ室みたいになりますから、角度を持って、さらには平行に海を見るような、という視線の同時性は重要な要素になります。

たまには手をつないでもいいか。
いや、それこそよれよれになって手をつながなければ歩けないかもしれないし。
そして、同じサウンドを聞きながら、いや、渋い落語でいつもの同じパターンに落ちながら、フッとか笑いながら、2人してあっちを見ながら。
そして、たまには、出窓に飾る花でも買いに行くか。
そんな、当たり前の日常が来てほしい。
「その日」が来るまえに。

→紀伊國屋書店で購入