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『81−1』夏木マリ(講談社)

81−1

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サルトルボーボワール
突然炎のごとく
体内時間じかけのオレ・・
必ずアイルシートに座る」

六本木の芋洗い坂にストライプハウスという個性的なギャラリーがあって、一 昨年だったか、サルトルボーボワールの写真展があった。
http://striped-house.com/2002.12.html

サン・ジェルマン通りのカフェ・ド・マゴを横切ると、誰もが、サルトルボーボワールを想い浮かべる。今、二人はモンパルナスに寄り添って眠る。国会図書館の中庭には傾いたサルトルの像がある。1965年、リトアニアで過ごした二人の夏の一コマ、砂丘を歩く、それでも何かペーソスを感じるサルトル の一面を撮らえた新鋭写真家スツクスの作品をモチーフにしているのだろう。

その時代、というより、時代を超えた寵児(ちょうじ)、悪い意味ではない、

ある意味、理想の二人。

・・・

空が少しずつ明るくなってくる頃の首都高は、東京が日本の東京というよりは、どこかアジアの国の東京という感じで、中々雰囲気があるものです。丸の内の地下を抜けて、プランタンの横に出て西銀座デパートの上を走る。かつてはモノレールに添ってそのまま直進しましたが、最近は左手に入って右前方にフジテレビを見ながらレインボーブリッジを渡ってアクアラインに抜ける。

ああヤバい・・・レインボーブリッジの手前で曲がsomething I can never

haveになったりして

I'm down to just one thing

I'm starting to scare myself ...

地球上の全ての音が無くなって、ピアノとベースの深い響きだけになって、遠くからはかすかに小鳥のさえずり。ガスっている橋の向こう側から朝日が散乱する。

朝日が昇る頃、ガスッてる湾岸は何かブレードランナーの逆光シーンのような、でも、そんなシーンがあったかどうか他の映画とゴッチャになっているかもしれないけど、勝手に映画の1シーンとシンクロする。

私は渋滞は全然気にならなくて、だって運転だけしてればいいし、それも長々と曲も聴けるので、でももちろん好きというものでもなく、避けるという感覚はいつもあって、銀座とか玉川高島屋夏目雅子の写真展良かったし)も早い時間に車で行くと、それなりに快適だったりする。

銀座へは同じプランタンの横を抜けて、新橋側から首都高を降りる。今は有料になっているけど、昔の土日はパーキングが無料だったので、裏通りにとめて、まだどこも開いていない、カラスと季節外れのTシャツの外国人の観光客の人しかいないような銀座の街を早朝からブラブラしていた。

早朝の繁華街は何となく前夜の喧噪を引きずっているようで、それも今から寝ようとしている感じで、中々雰囲気がある。裏通りのルパンとかよくお邪魔した準高級カラオケ屋さんとか、数時間前に終わった位で外にゴミが出てたりで何か生々しかったりで、健康的な早朝なのに逆に何かマズイものを見てしまったような感じで嬉しかったり。

画廊に絵を運ぶのを手伝っていた時も、朝早くから車を乗り付けて、画廊の開く時間を待って、GパンとTシャツで「はい、すみませ〜ん」とか言いながら、向こう側の見えない畳2帖位の絵を持ち上げ、銀座の休日を楽しむ人の間を抜けると、何となく歩道だけ業界になったみたいで少し優越感で。

夜中は夜中でゴソゴソと、今は原稿を書いたりで、時に丑三つ時に車で仕事場まで行き、一仕事してから目覚ましTVの前に帰宅するなんてこともしてたりしましたが、家で高速ネットがつながるようになってからは、さすがにその回数は減りました。その分、台所を拠点に、トロロをすったりしながら、ついでにグラスを洗ったりして。

ウチの子も誰に似たのか朝も早いのですが夜も遅かったりで、私が夜中にヘッドフォンをしてリズムを取りながら冷蔵庫をのぞいたりしていると、後ろでソーと戸が開いて、いつどこから仕入れた情報か分からないけど「シェリルクロウ結婚したんだって知ってた?」とか声をかけられたりして驚いたりする。

要は私は自分勝手ですが、要は時間勝手なところがあって、自分でもいつ寝ているんだか分からなかったりしていますが、そんな自分が結構好きだったりして、体調のバロメータにもなっています。

そしていつも際どい時に、目覚ましなしで意味のある数字の時間に目をさませる。そんな体内時計で生きている感じがずっとしていました。

夏木マリは(とか呼び捨てですみません)好きでも嫌いでもなく、まあその存在感が印象に残る感じでしたが(アニーのミス・ハニガンではイメージ貧弱なので今度「印象派」見に行きます)この本は、いわゆるジャケ買い、CDとかDVDとかも時々あるのですが、本屋の平台で手に取って、久々に直感に訴えられる感じで買ってしまいましたが、ジャケ買いでの当りはLDの(LDですよ、LD)コーエン兄弟の「ファーゴ」以来なので、かなり久しぶりですが、ある意味正解でした。

レジの前に並んで開いた頁の言葉

「男は自分の体内時計で動く」

「映画と人生はシンクロする」

これ、正解です。

「占いは好きである」

「自分がいくつかだか解らない時がある」

「飛行機や新幹線は必ずアイルシートに座る」

そして

「人生で今が一番楽しいと思える」

何か断定的に言われるのが嬉しい数少ない人。

「男が輝く条件」カッコいい男前になってほしい。私のためではなく、日本のために・・・いやいや、結構、夏木マリさん本人のため、でしょうね。でも、そんな結構1人称のところが、同性に受けるのではないでしょうか。

「男たちよ、ご一読、よろしく」と始まる文章だが、時に女性に向かって話す口調になる。

「悲しんでいるとブスになる」「バカじゃん、こいつ、と思った人間と時間を費やすほど私には残された時間はない」「我を忘れるぶっ飛んだ感じ」「知性、品、清潔」「男に余裕で接してもらうと女も優しくなれる」「いい顔というのは少ない」「時間を感じる男に会いたい」「エネルギーのある音って飛べる」

異性の私は、何も夏木マリさんにうけたいとは思わないでも、何かこう言い切られてしまうと「これは当てはまる!」「こんなこと言われてもなあ・・・」とか一喜一憂してしまう。異論反論もあるけれど、こう言い切る潔さに、桃井かおりさんとはまたひと味違う、こういう飲み友達がいたらドキドキしていいなとか、ちょっとまた、ありえないデカイ夢に向かってみようかな、とか。

これは彼女の本心だし、でも同時に、男も女もないエールになる。それと、男性に向かって、こう言い切れる女性=夏木マリを同性の女性が見て、読んで、多分「あなたたちも良い恋愛をしなさい、素敵な人になりなさい」と言われている感じになるのだろう思う。

「素晴しい俳優はアスリートと同じ」「丈夫も芸のうち」「食べ物に好き嫌いのある男はえらくなれない」「己(おのれ)を知っている男は群れない」

「好きなモノがたくさんあって、好奇心が旺盛で、そしてそれを言葉にできるというのは素敵なこと」

「フランスは、女性が歳をとることの素敵さがきちんと認識されている」

フェリーニの81/2は大好きだ」

夏木さん、1度お会いしてみたい・・・

・・・

サルトルボーボワールの関係に憧れていたという。

形式を取らず、死を迎える時に一緒にいられる関係。

恋愛は長くなるほど孤独になる。距離感という意識。

ローレン・ハットンの「ヘカテ」でも良いが、何かトリフォーの「突然炎のご とく」のような、例えばジャンヌ・モロー系をじっくり鑑賞したい気にさせる。それだけでもこの本の意図することが伝わった感じがする。


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