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『脳の中の幽霊』ラマチャンドラン(角川)

脳の中の幽霊

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2000年以降で最も売れた科学書はといえば、おそらくラマチャンドランの「脳の中の幽霊」だろう。数多くの実験と事例を含むこの刺激的な本は、間違いないくこの10年を代表する科学書だ。


まずはタイトルがいい。原題は「Phantoms in the Brain」であるが、もちろんこのタイトルはアーサー・ケストラーの(そしてもともとは哲学者ギルバート・ライルの)「Ghost in the Machine」をもじったものである。幽霊が幻に、機械が脳に対応するというわけだ。さらにいえば翻訳もいい。なによりも読みやすし、選ばれた訳語も、内容についての深い理解を感じさせる。

ラマチャンドランは、もともとインド生まれの医者であり、この本の主要なアイデアは、幻肢(phantom limb)という腕や足を事故で失った人々が幻の手足を感じる現象に基づいている。まさしく物理的には存在しない「幻(phantom)の手足」が脳の中には存在するというわけである。

彼は、手が知っていること(背側系)と目が知っていること(腹側系)の分離を指摘し、意識できる情報の限界を明らかにする。様々な事例を使って、意識と無意識の境界を徹底的に切り崩し、身体と心の関係の危うさも描き出す。その内容について詳細を述べるスペースはないが、ここで1つ、私にできる指摘があるとすれば、ラマチャンドランは決して「脳の科学者」ではなく、「脳と心の科学者」だという点である。

彼の研究者としてのキャリアは、ケンブリッジ大学での心理物理学の実験研究にはじまる。今やアメリカのみならず、世界においても最も有名な脳科学者となったラマチャンドランではあるが、もとはといえば、物理的な刺激を作成し、その見えと刺激との関係を記述する「心理物理学」のアプローチからスタートしていったのである。幻と脳、心理と物理、幽霊と機械、刺激と知覚。この両者の不可思議な関係こそ、ラマチャンドランの真骨頂であり、21世紀に残された科学のフロンティアだろう。

この関係をひとことで言いあらわしたものが「心身問題」というキャッチフレーズだ。心身問題を哲学的に語った本は数多くあるが、実際の具体的な事例によって「心」と「身」の不確かな関係を描いた本は、なかなか多くはない。ラマチャンドランは、心身問題という哲学的テーマを、データによって娯楽にかえたエンタテイナーなのである。このような本がおもしろくないはずはない。もしまだあなたがこの本を読んだことがなければ、ぜひ手にとってほしい。悪戯とジョークが大好きなラマチャンドランの、摩訶不思議な脳と心のエンタテインメントが展開されているので。


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