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プロの読み手による書評ブログ

『生きて死ぬ智慧』柳澤桂子(文)堀文子(画)(小学館)

生きて死ぬ智慧

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「崩れ落ちる気持ちを拾いに
しゃがみこんだまま
頭をかかえてうずくまる」

強烈なストレスの毎日です。
この数年、安眠という言葉から見放されていて、レムとノンレムの周期の90分おきに目が覚めては、寝言にもならない唸り声のような感じで自分を奮い起こします。起きている時も、眠気というより、一瞬自分でなくなる感じがしたり、突然摩訶不可思議な事を考えたり、今考えていたのは何だろう、誰だろう、と慢性的な覚醒状態に陥らないようにしなければと、これは結構マズイ光景です。

でも、そんな時の救いはどこにあるのか。

音楽でも映画でも良いのですが、そう言っては何ですが、一瞬のヒーリングは増々罪悪感をつのらせるばかりで、ここはもっと根本的な抜本的な策が必要です。

その昔、今の車にする前は、2シーターの車に乗っていました。

エンジンも足回りも太くて最高に気に入っていました。高速の加速でシートに余裕で吸い付けられる感じは、何かそのまま行ってしまう感じで、老後はまたその車に戻ろうと思っていました。年寄りがペアでサングラスなんかで2シーターで、とかって格好良いじゃないですか。ポニーテールじゃなくてもいいですから。

6〜7年に1度のモデルチェンジと聞いていたので、3〜4世代位先のモデルになるなと思っていましたけど、そんなこんなもゴッツイエンジンが割に合わないということで生産中止になり、老後の夢を考え直さなければならないはめになりました。

その車に乗っていた頃、凝っていたのが「般若心経」でした。

実は、本屋さんでカセットテープを買って来て、毎朝、その車で出勤する時に「般若心経」を聴いていました。聴いて、というより一緒に唱(とな)える感じです。勿論CDはハードロックでしたが、朝だけは守衛さんの前を通る時、軽く会釈しながら「ギャーテイ、ギャーテイ、ハラギャーテイ」とか言っていた訳で、これは結構アブナイ光景です。

今のスタイルのプレジデント(プレジデント社)になる前のプレジデントは、かなりゴッツイ雑誌で「家康に学ぶ組織論」とか、それこそ「般若心経の神髄」とか、紙質も違って、カジュアルではないVIP宛の記事が満載でした。学生時代からビジネスマンのノウハウものにはまっていた私は、その重いプレジデントもかなり買い込んで、その中で出会ったのが「般若心経」でした。

でもそれこそ無謀にも、一切の解説に目をつぶり、その「般若心経」を繰り返し唱えることで、理解しようと試みていました。茶道の作法のような、柔道の受け身のような、繰り返し行なうことで自ら意味を理解出来るのではないかと過信していて、結局のところ、何も分からずじまいでした。

それから何冊かかなりその手の本を買いましたが、何となく眺めるだけで、積ん読状態が続きました。

車種を変えて、MDとCDになり、カセットが入らない状況で、聴くものもいつの間にかハードロック一辺倒になっていきました。

ここに来て、またこの10年来スケジュールが破綻していて、強烈なストレスの毎日です。

ウチのマンションで1番忙しいという自信があります(比較が…)。

一瞬の快楽は睡眠薬みたいなもので、いや、睡眠薬は一瞬の快楽みたいなもので、その一瞬は良いのですが、酔いが醒めれば自己嫌悪の繰り返しです。なのでまた「般若心経」かなとか自宅の引き出し一面に並んだ過去のカセットテープをゴソゴソと探していました。

キャンディーズ解散コンサートとか(図らずも行きました)デビュー前の学生時代のアルフィーの学園祭ライブとか(一瞬、かぐや姫とかガロの物真似バンドでした)リリイとかマリーンのライブとか、今は見られない畳の裏の新聞を交換する気分で、洋楽一辺倒の私がカセットだけは何でこんなライブラリになったんだと、これは結構笑える光景です。

それはともかく…

「引き」とは不思議なものです。ストレスの窮地に追い込まれた時にこの本に出会いました。

曰く、科学的解釈、心訳「般若心経」

ところが初めは何のことはない、どこが科学的解釈なんだかと思った訳です。

ところがこれが何のことはない、自分が荒(すさ)んでいる証拠だった訳です。

あとがきを読んでハッと気がつく。

この人、何か凄いバックグランドがあると感じてくる。

般若心経が教える空(くう)について、科学的に理詰めで書くことはできます。

しかし、科学的である以前に、もっと崇高に歓喜を込めて、さとりの喜びを表現したい、と。

通勤時間90分で10回は読める。常備薬のような感じ。さし絵も素晴しい。いや、さし絵には留まらない、一方で画集。悩める大人の為の壮大な絵本に見えてくる。

10回程読むと、理系の人が書いているという感覚が伝わってくる。

これが本当の意味での科学的解釈かもしれない。いやそうでもない。

私は、観、空、慧という字が好きで、でも画数が良くなくてあきらめたという非科学的解釈。それでも朝の10回の余韻で1日が過ごせたりする。そのまま寝られれば、平穏無事な生活が戻るように感じる…ところが。

ところが、次の日の朝になると未だに現実に結びついていない現実に愕然とする。

結局の処、次の日の朝、今もって、私の問題は全くもって解決されていない。

昨日の「般若心経」はどこに行ってしまったんだ。

山積みの仕事はそのままで、十種類以上の書類を仕上げなければならなく、百件以上の仕事が同時進行で、千通以上のメイルに返事をしていない。やりたい事はやらなければならない事の十倍以上で、私の一生は一瞬でしかない。

この全く同じ毎日の繰り返し。

今日もまたこの本を読んで、通勤の90分の間に気を取り直して、坦々と眈々と淡々と、この全く同じ毎日を繰り返さなければならない。

そして、また明日の朝には「般若心経」とは関係のない現実が待っている。

そして再び、私の問題は全くもって解決されていない。

しかし、それを繰り返すことによって、「般若心経」が現実で、現実がshow time、空(くう)であるといつになったら観えてくるのだろうか?

坦々と眈々と淡々と、そんな感覚がその昔カセットで聴いていた時よりは気持ち少しは進歩しているようでいて、ところが、未だもって修行の身であることに変りはないという現実。

よって、私の問題は未だもって解決されていない。

崩れ落ちる気持ちを拾いに

しゃがみこんだまま

頭をかかえてうずくまる

今日も1日、何一つ片付かず

全く同じ毎日が繰り返される

結局の処

私の問題は全く解決されない

→紀伊國屋書店で購入