『芸術と貨幣』マーク・シェル(みすず書房)
「貨幣と芸術、貨幣とキリスト教の親密な関係」
芸術に描かれた貨幣というと、ついティツィアーノの描いたダナエの裸体にふりそそぐ金貨を思いだすが、絵画だけにかぎってみても、貨幣はさまざまに異なる顔で登場していることに驚かされる。
シェルの『芸術と貨幣』は、西洋のギリシア、ユダヤ教、キリスト教の伝統のうちで、さまざまな芸術作品に登場する貨幣について考察する書物だが、たんにそれだけにかぎらない。貨幣はキリスト教の「根」のところにすみついていて、多様なアレゴリーの「種」となっていることを教えてくれる。
キリスト教においては、三位一体の理論のもとで父と子と聖霊が同じものでありながら、ペルソナ(仮面)を変えて登場する。イエスは人であると同時に神でもある。人という現実の姿をとりながら、実は神という観念的なものの具現したものである。貨幣もまた、たとえば金属という現実の物質でありながら、そこに刻印されただけの価値という観念的なものを示している。
「キリスト教的思考にとって貨幣がとりわけ微妙な問題となるのは、その価値が普遍的に等価で、神人イエスがそうであるように、観念的なものと現実のモノを同時に顕現させるからである」(p.6)。貨幣は現実の物質で作られていると同時に、それはどこでも通用する普遍的な価値を示すものとされている。このようにキリスト教と貨幣を支えている思考は「うり二つ」なのだ。
それはキリスト教の歴史において貨幣の比喩やイメージが繰り返し登場することからも明らかだろう。イエスは国家に税金を納めるべきどうかを問われて、カエサルの肖像の刻印されたコインで、「カエサルのものはカエサルに」と答えた。そして「神のものは神に」と付け加えた。これが何を意味しているかは微妙な問題なのだが、神殿におさめる税金を示唆したものだという説もある。教会は現代にいたるまで、信徒たちから信仰の「代価」として貨幣を集めつづけているのである。
税金だけではない。宗教改革で問題になった免罪符というものは、自分の罪の許しを貨幣で買い取るものだった。罪に対しては、さまざまな罰が与えられたが、その罰は貨幣で買い取ることができたのだ。罪を「贖う」という言葉どおりに。そしてどの罪にはどれだけの貨幣が必要かということが定められていたのであり、罪の大きさは貨幣の大きさで計られていたわけである。
また法王庁がみずから貨幣を発行していたことも有名だし、ミサに出席するためには代用通貨が発行されることもあった。これは「聖餐の硬貨」とも呼ばれたが、これはは司祭が「これはわたしの血である」とか、「これは私の肉である」というタイミングに合わせて与えられたという(p.19)。このとき代用通貨は聖餅と同じ地位を与えられるのである。代用通貨も聖餅も、本物の通貨と同じ方法で製造されることが多かったのだ。
西洋の絵画においてはこの聖餅にはIHSという語が刻印されている。「この徴において」とか「神の名において」と解釈されるこの語は、重ねて書くと、Sの上に縦棒が三本、横棒が一本にみえる。ここから縦棒と横棒を一本ずつとりさると、ドルの記号になる。「キリスト教の古い組み合わせ文字(IHS)がアメリカで貨幣の記号($)に変じたのは、けっして摩訶不思議な出来事ではなかった」(p.22)というのも、説得力がある。
本書ではさらに、聖杯と貨幣の関係などキリスト教のさまざまな貨幣との「因縁」が解明される。そしてシャイロックに描かれたユダヤ人と貨幣の結び付きの背後に、キリスト教の無意識的な貨幣観と反ユダヤ主義が潜んでいることを示すなど、奥行きもふかい。ホッティチェリの『受胎告知』の絵で、天使の口からでる金文字が、ダナエの貨幣といかに結びついているか、あなたは推理できるだろうか。
書誌情報
■芸術と貨幣
■マーク・シェル著
■小澤博訳
■2004.1
■251,39p ; 22cm