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プロの読み手による書評ブログ

『気の力』船井幸雄・岡崎久彦(海竜社)

気の力 気は挑戦する
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BGV(Nickel Back/Live at Home(2002))

「「世の中の構造」と「人間のあり方」
 「個の時代」への警鐘
  love is not enough
  you can't change anything」

疲れ過ぎて眠れない夜が続く
夕方になると歩く気持ちもままならず

電車の中で立っていることも苦痛で修行で

車を運転する気にもなれず

そんな時は、とにかく、まともに考えること、が第一で

グズグズと同じ思考に留まる時間もなく

ややもすると、右脳と左脳とで辻褄の合わない考えが巡る

そんなこんなで、W杯の延長戦を見て、PK戦を見て

そんなこんなの自分が甘いことがよく分かる

それまでの死闘で、思考以前の精神で、体力以前の気力で

まともに考えること、まともにプレーすること

それもケセラセラで、気持ちで、気力で

そして「気」で「自分」と戦う


赤がスイスで、白が韓国という、何か皮肉な組み合わせで試合は始まった。

窓を閉めていても聞こえる歓声に起こされて、私は空が明るくなりかけたホテルの前に出る。ソウルの中心、市庁舎前のパブリックビューは17万人、乙支路通りまでが真っ赤に染まっていた。

http://www2.asahi.com/wcup2006/news/TKY200606240130.html


そして、170万人に及ぶパブリックビューは悲鳴とため息で終る。


しかし、最後まであきらめないやつらがいた。

その最後まで「気」を抜かないやつらがピッチに立っていた。

ロスタイムまでもあきらめない。

2点差でも勝ちを信じてあきらめない。

そのピッチに立つ選手の、その赤い「魂」、目から体から発する赤い「気」に奮い起こされる。


パブリックビューは最近の■■同様、中途半端に賢くあきらめていた。

現実にはありえない確率を信じて、でもnothingではない確率を信じて、そんな考えを■■は「馬鹿じゃないの?」とか言うだろうが、そんな考えは放っておく。

私は最後まで信じる。

その「気」を信じる。


そのホテルで私は日本−ブラジル戦を見た。


世の中、勘違いしてもらっちゃ困る。

そこの■■のことですよ。

そんな私のことですよ。

そんなんでいいんですか?

因果応報は確かにあって、現在にも未来にもサティスファイしない■■は、気持ち愚痴気味で、それより自分以外のものに批判的で、それは■■が、それは私がいけないんです。見え見えじゃないですか。自分以外のものがいけないのは=自分がいけないのであって、ウダウダ言わず、自分の責任で地獄に堕ちましょう。

「気」のないやつらは本当は■■■■。


日本はどの業界でも、体力とプロ意識に欠ける。

世界のレベルとは全く違う。

さらにタチが悪いことに、そのレベルの違いを実感していない日本人、そして国際化の大きな勘違いをしている日本人、実は今の所は中々救いようがない。他国に比べて、安全な社会ということが唯一救いのようだが、それも平和ボケの気がないわけでもない。海外に行ったからって、何の足しになる?

それ以前の、海外に行ったからって以前のやつらは、もう少し時間が経ってから・・・いや、海外と日本、世界と自分の違いを知らないやつらとつきあうのは本当は■■■■。

この年になって知らないこと自体がもう手遅れかもしれないから、やりたいんだったら、その時間差を取り返す気があればいいけど、業界を、毎日の生活を、そして世の中を、勘違いしてもらっちゃ困る。


それ以前に、私は、誰も指摘しない(でもない)敗因を気にしている。そこまで言えない、おごりと勘違い、その全くのおごりと勘違いを■■にしてはいけない。つまり、自分の外側に問題があるのは自分の責任で、自分の外側の問題を指摘することは■■の骨頂であることに気がつかなければいけない。


日本は、アジアは、自分の責任を意識した「和」の浪花節でなきゃ万が一も勝てない。WBC浪花節だったじゃないか。いつもの大リーグモードから、日本の、アジアの、浪花節WBCモードだったじゃないか。本当に戦う者の直感がそうさせた、これは業界を超えた、一つの「気」の「和」のモード。


本来、選手が混じるスポーツは日本は不利で、コートを分けるなり、コースを分けるなり、攻守を分けるなり、個人の領域を確保しなければ、ほとんど勝ち目はない。なので、サッカーやバスケやラグビーのように選手が混じるスポーツは、日本はいつまで経っても不利。

それは、フィジカルにか?

否、勿論そういう要素は否めないが、実はその要素は比較的小さい。

実はメンタルな部分、「気」と「和」の部分で、本来、元来アジアが得意とすべき「気」と「和」の部分で、日本はフィジカルに劣っている以上に、大きな勘違いをしている。

「気が弱い」=「気」が「弱い」

「気」が「迫」らないやつらは本当は■■■■。


しかしジダンにしてもフィーゴにしても、彼らの発する「気」そして「和」は徐々にリバーブローから突然ストレートに顔面をヒットする感じだった。

ロナウドにしては確かに始めは下馬評もあり、体型の違いもあり、4年前なら得点になっていたシ−ンも素人ながらに多々見られ、何が不摂生だったのかとかミーハーの見方をしていたが、ところが、最小の動きで必要なポイントをおさえる、それこそ格闘技でも何でも、ある領域に到達したプレイヤーだけがなしうる技と言えるし、世界的には不摂生レベルでも、日本に対してはそれでも何かモハメドアリのように、いや確かに蝶のようには舞わないが、最小の動き、簡単なスウエーバックでパンチをよけて、一瞬の間に蜂のように刺す。何か武道のマイスターのような、力を込めずして相手を倒すような。体力のない相手にはそれで通用したりする。何が悔しいかと言えば、そこが悔しい。


ロナウドを一瞬だけでも目覚めさしたことも勿論だか、「気」のない「和」のない■■、おごりと勘違いの■■、それと共に生活しなければならない私の戒めに。


その一瞬に見せるつまらなそうな視線

その一瞬に頬から顔色を落とした表情

そんな視線だから、そんな表情から、そんなリズムだから

通り過ぎた後に残るその淀んだ「気」も感じないのだろう

全ては自分の責任で、全ては私の責任で


「良い気」と「悪い気」

「良い気が入ったものは良い波動に満ちている」

「自分が出した波動は自分に返る、因果応報」

「正しく楽しく生きる」


そういう意味では『気の力』は科学的にはやや致し方ない内容で、そう想う理工系には1989年に出た『気は挑戦する』別冊宝島103号(宝島社)の方が良いかもしれない。それは10年後に文庫本にもなったが、両方とも絶版で入手困難とは、未だに「気」の存在をオカルト視する人類の宿命のような気がする。


物事を批判したり、否定したりしない

全てを受け入れ、包み込み、嫌いな事がなくなる

他人を批判したり、心配させたりしない

他人の欠点、短所も気にならない

不平不満が減り、全てを肯定し、感謝する


低いレベルは体全体からにじみ出て、そんなレベルに巻き込まれてはいけない

全ての責任は、その、私の「気」の淀みにあり

ある意味「個の時代」への警鐘でもある


don't you f■cking know what you are ?

go on get back to where you belong

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