書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ストリートワイズ』坪内祐三(講談社)

ストリートワイズ

→紀伊國屋書店で購入

「ちょっとだけ古くさいぞ 私は」

 新刊本が苦手だ。著者によって発せられたばかりの言葉が、なまなましく突き刺さってくるような気がして冷静に受け止めることができない。知人に直筆の葉書をもらったときにも、蒸しタオルを冷ますような気分で掌の上でころがしてから読むくらいだから、もはや精神的な病である。結果として、この書評ブログでも、古典でもなく新刊でもなく、ちょっとだけ時代遅れの本ばかりを取り上げることになって恐縮である(むろんそういう本こそが本屋の文化にとって大事だと思っているから紹介するわけだが)。


 

坪内祐三のデビュー作である本書も、1997年に晶文社から刊行されたときに、新刊本の平積み台から何度か取り上げては頁をめくった覚えがあるが、結局は買えなかった本だ。『古くさいぞ私は』(晶文社、2000年)も『後ろ向きで前へ進む』(同社、2002年)もそうだった。ベンヤミンを匂わせるような題名も、サブカルと思想が入り混じる内容もとても気になるのに、あまりにも題名が直球で迫ってくる感じが居たたまれなくて、買えなかった。そしていざ買ってみた『靖国』(新潮社、1999年)が駄目で(サブカル感覚と保守の結びつきが趣味にあわないのか)途中で投げ出してしまった。その後『一九七二』(文藝春秋、2003年)を読んでかなり感心したにもかかわらず、最初のすれ違いが尾を引いたためか、なかなか他の著書を読む気がおきなかった。

 ところが去年の秋に、私の中で突然、時期外れの坪内祐三ブームが起きてしまった。たぶん彼の著書の社会的評価が安定し、本屋のなかで「冷めた蒸しタオル」の領域に入ったのだ。ちょっとだけ「古くさ」くなった坪内祐三の著書は、実に私の趣味にぴたりとあう。そうなるともう止まらない。上記の本も明治ものもサブカルものも書評・古本ものもすべて面白い(『靖国』だけが本棚に積読のままだけど)。たちまち20冊以上を買って読んだなかでも、印象に残った一つが本書『ストリートワイズ』だ。プロレス、プロ野球、情報誌、古本といったサブカルチャーだけでなく、福田恆存を軸にして真正面から戦後思想に取り組んでいるのがとてもいい。今回4月に文庫化されたので(晶文社版も入手可能なようだ)、半年振りにじっくり読んでみた。やはり面白かった。

 本書の白眉は、大岡昇平の『俘虜記』に対するドキリとするような批判だろう(「『俘虜記』の「そのこと」」)。『俘虜記』は、戦場で米兵を撃つチャンスに撃てなかったという大岡自身の、一種の良心的懲役拒否の記録として高く評価されてきた。ある意味では戦後の平和主義思想の精神的なバックボーンになってきた文学作品といえるかもしれない。ところが坪内は、その撃てなかった場面の描写に、大岡の自己正当化のための無意識的な嘘をかぎつける。大岡が撃てなかった理由は、殺人の道徳的忌避などではなく、「撃てば撃たれる」という恐怖のためではなかったのか、と。つまり、大岡昇平戦後民主主義者が理念としての平和を良心的に掲げてきたのに対して、そんな態度は「現実の醜悪さ、人間性の奥深くにひそむエゴイズム」(101頁、ただし福田恒存からの引用)から目を背ける「純粋病」の一種にすぎないというのだ。むろん、この理屈だけを取り出せば、福田恆存から坪内が学んだ、典型的な保守派の主張かもしれない。ただし坪内はその主張を、いかにもブッキッシュな彼らしく、初出雑誌版と単行本版の比較、対談ごとによる大岡自身の本作への評価のズレや記憶違い、発表当時のほかの作家たちによる否定的評価など、多数のテクストを渉猟しながら進めていく。そうした厚みを持った読みと探求によって、『俘虜記』への批判が逆に『俘虜記』を深く味わうための導きの糸にもなっている。そこがいいのだ。

 このように坪内は基本的には、戦後民主主義思想の「純粋病」的なエゴイズムに批判的である。しかし本書所収の「あいまいな日本の「戦後民主主義」」は、そうした保守派的な批判には収まらない、彼独自の戦後民主主義へのかすかな希望が探求されていて興味深い。この論考もまた大江健三郎の粗雑な戦後民主主義論への保守派的な嫌味から始まるのだが、しかしその後で坪内は、橋本治中野翠らが戦後民主主義を「原っぱ」や「青空」の比喩で肯定的に論じているのを引きながら、「学内戦後民主主義」と「放課後戦後民主主義」の比較検討へと議論が展開していくのだ。放課後戦後民主主義とは、原っぱという何の意味もない空き地に思い思いに集まってきた子供たちが、それぞれの野性の知恵を出し合って成文化されることのないルールで遊ぶことである。それに対して学内戦後民主主義は、子供たちの自発的な遊び空間を、危険なことは駄目だとか「あの子は入れてやんない」という差別は駄目だとかといった偽善性によって抑圧してしまうことである。坪内は書く。「私は、「戦後民主主義」という言葉の八割に偽善性を、つまり平等という名を笠にきた無責任なものを感じながら、残りの二割に、機会は全ての人の性格や能力に応じて平等に開かれているという、明るい前向きなものを感じている」と。

 

 現代の文化状況のなかでは、「学内戦後民主主義」的文化によってほとんど抑圧されてしまったかのように見える、こうした「放課後戦後民主主義」的な感受性をどのように現代のなかに発見し、救済するかという問題意識に関して、私は坪内に深く共鳴する。むろん、そのために古くさい読書体験やサブカル体験に関する知恵をマニアックに書き連ねていくこともいい。坪内にとって放課後は「原っぱ」というよりも書店やレコード店や映画館のことなのだ。だからいっそのこと「ストリート」といった表現を看板にせずに、書物というヴァーチャルな空間においてこそ人間の深い知恵は発揮されるのだと言い切ってしまったほうがすっきりするのではないか。「ブッキッシュワイズ」(そんな表現ないだろうが)こそが、本当のこの本のタイトルではないか。いや、そう読めてしまうからこそ、すでに私は坪ちゃんのファンなのだった。

 付記(おまけ)

 本書のなかでベンヤミンと並べて暗い人として紹介されている野口富士男の『暗い夜の私』(講談社、1969年)が気になって、古本屋で買って読んでみてぶっ飛んだ。すごい。例えば最初の章は、ベンヤミンが亡命した年と同じ1933年の日本における政治的抑圧状況下での演劇、政治、映画などの文化状況が個人的な視点から実にリアルに描かれている。まるで日本版『ベンヤミン―ショーレム往復書簡』のようなのだ。ちなみにこの1933年、野口富士男は紀伊国屋出版部で『行動』という雑誌の編集者の仕事をしていた。色街で遊ぶ田辺茂一の話も印象的である。


→紀伊國屋書店で購入