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『これがビートルズだ』中山康樹(講談社現代新書)

これがビートルズだ

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「「ア―――ドンノオ」としてのビートルズ体験」

 無茶である、と最初は思った。かつて本屋で本書を見かけたときは、馬鹿げているとさえ思って無視してしまった。何しろビートルズが発表した全公式曲213曲をその録音順に、すべて新書版1頁(40字×16行)の同じ字数のなかで批評するという試みなのだ。おそらくそこにあるのは、ビートルズの楽曲全体を万遍なく見渡したいというデータベース的欲望の集積にすぎないだろう。そんな官僚的なやり方では、優れた批評に必要であるところの、熱い思いや独自の偏見や深い洞察が発揮できないだろう。そう思い込んでいた。ところが読んでビックリ、まるっきり正反対の本だった。ビートルズに対する著者の熱い思いと偏見と深い洞察が、ものすごいドライブ感を持った文章によって見事に表されていくのだ。単調な記述形式は、むしろその熱い情動を発揮するための、土俵として選ばれたにすぎなかったようだ。参った。

 この本の何がいいって、まず個々の曲の描写がなまなましいのだ。ここではビートルズの楽曲が客観的に紹介されたり、歴史的な評価が下されたりしているのではない。いや『ハード・デイズ・ナイト』がジョンの絶頂期で、『リヴォルヴァー』あたりから徐々にポールがその覇権を奪い取っていって、『アビーロード』B面でポール型の爆発の頂点へとたどり着いた、といったような歴史的評価が下されていることは間違いないし、それぞれの曲に対して最高傑作だとか駄作だとかいった評価も確かにされている。しかし著者・中山康樹は、そうした様々な評価を下しつつも、決してその結論的評価を観念的に説明するのではなく、むしろ逆にその曲を最初に聞いたときに「いいな」と感じた、その瞬間の身体的感触へと言葉を差し戻そうとする。そこがいい。

 例えば、「サムシング」の評をみてみよう。

 「この曲の命はイントロとサビだ。まずイントロ。これが意表を突く。リンゴのドラムスが“ドドドドドン”だ。そこに『おいおいエリック・クラプトンかあ?』と目をこすりたくなるような“泣きのギター”が登場する。そしてジョージのひなびた声で「サムシングインザウェイ、シームーヴス」とくる。最後の“ス”はほとんどかすれて聞こえない。(略)次の山はサビだ。ジョージが“いくぞ”のかけ声(比喩だ)とともに「ユアスキンミ(You’re asking me)」と山頂めがけてなだれこむ。そして最大のキメの「アドンノウ(I don’t Know)、ア―――ドンノウ」だ。」(237頁)

 見事である。爆笑である。「ドドドドドン」に「ア―――ドンノウ」。こんなバカみたいな批評表現があり得るのかと驚嘆した。確かに私は「サムシング」をこんな風な感じで今まで聞いてきたのだが、それをこのように言語化することなど想像さえできなかった(バンドマン同士ではあるのだろうか)。言ってみれば、曲を聴いているときに、その聴き手の身体のなかで生成してしまった何事かが、ここでは言葉として(日本語として)見事に記述されている。だからそれは客観的な実体としての I don’t knowという歌詞ではなく、身体感覚のなかにある「アドンノウ」という奇怪な聴覚イメージでなければならない。私などは、「アドンノウ」と言われただけで、「サムシング」という曲を聴くときの快感のツボを押された気分になってしまう。繰り返すが、それが見事だ。

 むろんそのとき中山が重視している、彼独自の批評のポイントがある。それは、演奏者として、とりわけ「歌手」としてのビートルズを評価するということだ。「ロックにおいて無視されがちなことのひとつに、歌手としての評価がある(略)ジョンもポールもミック・ジャガーボブ・ディランも本質的には“歌手”なのだ。」(47頁)。例えば、ポールの歌手としての評価を中山がどう語るのか、みてみよう。

 ポールはすべての言葉を音楽的に響かせる、あるいはサウンドのなかに溶け込ませる天賦の才をもっている。その代表が“ノー(No)”という言葉を発するときだ。曲は問わない。あらゆる曲のあらゆる“ノー”が、その曲のクライマックスと連動している。たとえば≪ハロー・グッバイ≫を思い出してほしい。あの曲の魅力はポールが発する“オウノオオオ(Oh,no)にすべて集約される。まさしく“ポールのノー”だ。(66頁)

 「この歌手として評価する」という中山の方法が本書で抜群にうまく行ったのは、ここで取り上げたビートルズというグループが、それがスタジオ録音であるにもかかわらず(聴衆の反応はないにもかかわらず)、ライブ演奏であるかのように全力を出し切って生き生きと演奏することができる、特殊な才能に恵まれていたからだろう。初期においては録音技術の水準からいってそうせざるを得ない側面もあったが、後期になって『サージェント・ペパーズ』や『アビーロード』のような、ダビングや編集を重視するようなアルバムを手掛けるようになってからも、彼らのヴォーカルや演奏にはスタジオ・ライブとしての躍動感が残っていたと中山は言う(148頁)。「せ~の」の掛け声で録音している感じだと。いわば「複製技術時代の芸術作品」として作っているにもかかわらず、ビートルズはその録音現場で、あらゆる情熱を振り絞った演奏を行って、その複製を超えた何か(アウラ)を記録として残した。

 

 そのスタジオでのなまなましいパフォーマンスの記録が、いまも一回限りの出来事であるかのようにCD(複製技術)を通して私たちに届けられる。なんだか奇跡のようではないか。ある瞬間に全力を出し切った演奏記録が、永遠にそのまま何度も反復される。それがビートルズの音楽から感じる、永遠の若さの理由だろう。中山康樹のこの「アドンノウ」的な批評記述は、そのビートルズ的な永遠の若さを言葉で掬い取ることによって、ベンヤミンのいう複製技術時代の芸術作品の「一回性」と「反復性」を交錯させてしまうような、レコード芸術一般の謎に肉薄している。まったく、恐るべしだ。


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