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『コンニャク屋漂流記』星野博美(文藝春秋)

コンニャク屋漂流記

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「日常のなかに漁師文化の痕跡を探り当てる」

 星野博美、待望の新著である。私が星野博美ファンであるのは、彼女のエッセイの手にかかると、何気ない日常の光景がとてつもなく不思議な相貌を持って見えてくるからだ。その妄想力のありようがとても魅力的である。

 例えば東京の中央線沿線に住んでいた彼女が、この路線にとって日常茶飯事である人身事故による遅延に出くわしたときのこと(『のりたまと煙突』文藝春秋)。彼女はその事故処理の経過をにらみながら、上手に電車を乗り継いでほとんど時間をロスすることなく目的地へ移動することに成功する。「今日は冴えてるぞ」と得意になった瞬間に「背中がすうっと寒くなった」。一人の人間が自ら死を選んだというのに、自分も鉄道会社もいかに日常を維持して、それを無かったことにするかということしか考えていない。なんて薄情なんだ。

 と、ここまでなら割と常識的なエッセイだろう。しかし星野の特異な妄想力はここから発揮され始める。「なぜ少なくない人が鉄道自殺をするのだろう?」と自問自答するのだ。鉄道自殺をすると大勢の人間に自分の死と関わらせることができる。例えば自宅で死んでも、その死を共有するのはごく少数の人間にすぎないが、鉄道に飛び込めば、その路線を走行していたすべての列車の乗客やホームの客の全員(ときには何十万人に)にその死が知らされるだろう。だから、中央線では、自分の死を大勢に知らせたいと願う自殺者とそれを日常的にやり過ごそうとする鉄道会社や乗客との間に、日々ドラマが展開しているというわけだ(そこからさらに「なぜ中央線で」という問いかけが始まるのだが、ここではもはや紹介する余裕はない)。

 こうして星野博美は、他の人間たちがやり過ごしている日常の些細な出来事に、大丈夫かというくらいに徹底的にこだわり、それがなぜそうなのかを推論や想像によって考え抜き、遂にはその当たり前の風景をとんでもない相貌の世界に変えてしまう。それでいて、その街や人間への愛おしさを消してしまうわけではない。以前よりもより一層深いところで日常を愛することを読者に促してくるような力がある。

 本書『コンニャク屋漂流記』もまた、品川区・戸越銀座の町工場で育った星野博美の父方の祖父が、千葉・外房の漁師の家から東京に出て来て町工場を始めたという平凡な事実から始まって、自分の家族・親族の日常生活のなかに潜んでいた、漁民文化と農民文化の対立という文化摩擦を探り当て、さらに祖父の手記や歴史史料を丁寧に読み込みながら、ついには17世紀に紀伊半島から移住してきた自分の祖先の足跡にまでたどり着いていく。その推論が推論を呼んで、ただの家族の話がどんどんと時空を広げていく想像的過程のなかで、私たちの日本文化や漁民文化に関する常識が次々と覆されていく。それが実にスリリングである。

 

 出発点は常に、何ということはない日常的な事実である。例えば、猫を飼うこと。星野博美は猫好きで、いま(中央線沿線から)実家に戻って両親と一緒に猫を飼って暮らしている。ふと幼い時には自分の家が動物を飼っていなかったことを疑問に思って両親に尋ねてみると、農家の出身だった祖母が猫をとても好きで、むかしは家でも飼っていたのだという。しかし著者の母親が嫁に来て町工場の人たちのご飯を作るようになると、工員たちがみな地縁・血縁で雇った外房出身の男たちで魚好きだったので、おかずはどうしてもアジの開きのような魚料理が多くなる。それをしばしば猫に盗られて母は困った。だから猫を飼うのをやめたのだそうだ。

 その事実を聞いて著者は、いつもの妄想的な推論を始める。農民にとっては米を狙うネズミという天敵を捕ってくれる猫は大切だが、漁師にとっては主食の魚を狙う猫こそが天敵だろう。だから農家出身の祖母にとって猫を飼えなくなるのは、自分が幼いころから慣れ親しんだ農民文化を漁民文化圏のなかで失うということであり、いま再び自分が実家に猫を持ち込んだのは、漁師文化が我が家から完全に消えたことを意味するのだろうと。こうして、たかが猫が好きかどうかという、個人の趣味の問題として扱えば済むことを、著者は人間の出自の「文化」の問題として読み込んでいく。私たちの日常的な私生活のなかに、自分たちでも気づかない、祖先から伝承されてきた文化が秘かに眠っているのではないか。このように推論してみせるのだ。

 あるいは著者が幼い時に毎日食卓に乗っていた石持(いしもち)という魚の煮つけ。幼少期に外房の岩和田で育った祖父が最も慣れ親しんだ大好物だったので、母は嫁として毎日食卓の真ん中に出していた。しかしカレーライスやハンバーグの味を覚え始めた昭和40年代生まれの筆者にとっては、小骨も多くてぐずぐずに崩れており、そこから立ち上る魚臭さも強烈なその料理はどうにも苦手だった。それで「嫌いなんだもん」と言って、隅っこに追いやってしまった。いまから思えば、それは祖父の故郷そのものを否定することだったのだと著者は反省する。もしかしたら祖父はその石持事件を契機に、失われた故郷を取り戻す行為として自伝的な手記を書き始めたのではないかと。

 このように前半は、彼女が生まれ育った東京の町工場の日常生活のなかに、漁師や農民の多様な異文化が混在していることを読み解いていく物語だといってよい。そのとき著者が推論の手掛かりにするのは、彼女の香港での長期滞在経験である。移民の街・香港の人びとがいかに地縁や血縁を頼りにして暮らしているかを、彼女は滞在中、中国文化の特徴として興味深く思っていた。しかし、外房の漁村から地縁・血縁を頼りに東京に次々と出て来た人々を、戸越銀座付近の町工場で働かせていたのは、ほかならぬ自分の一家ではないか。だから本書は、自分が過ごした幼い時の日常文化のただなかに、異文化的な漁民文化の痕跡を発見していく過程だと言えよう。しかもその調査が、祖父の残した手記の力を借りながら行われるという意味では、ある種のカルチュラル・スタディーズの実践と言えるかもしれない。

 だが後半は、そこからさらに飛躍していく。前半では著者が描く漁民文化は、博打好きでお笑い好きで、と異文化的な特徴を持ってはいても、近代化のなかで失われていく漁民文化という一般的なイメージをはみ出るところはなかった。しかし後半に祖先たちの出身である紀伊半島を射程に収めていくと、岩和田の漁民はまったく相貌を変えて現れてくる。ふつう私たちは漁業を、陸地の農業や商業よりも周縁的な文化として考えてしまう。だから確かに、房総半島の漁民たちが紀伊半島からやって来た人々であり、勝浦とか白浜といった同じ地名が両者にあることは知っていても、それを農業や商業とは無関係な、周縁的な海の歴史の問題としてだけ考えてしまう。

 ところが本書は、それが全くの誤解であることを教えてくれる。17世紀から18世紀にかけて房総半島に移住してきた漁民たちは、勝浦や白浜あたりの太平洋沿岸の漁民ではなく、大阪湾岸地域の出身者たちであった。彼らが獲っていた魚は鰯であり、しかもそれは食料としてではなく、干鰯(ほしか)と〆粕(しめかす)という農業用肥料の原料として獲っていたのだ。すなわち近世の近畿地方では、商品作物としての棉作農業が爆発的に発達したため、農民たちは収穫をあげるために即効性のある魚肥を大量に必要としていた。そして漁民たちもまた、そうした大都市の商業圏やその近郊農村の発達と結びついて、高い漁獲高を求めてゴールドラッシュのように外房まで移動してきたというわけだ。

 こうして歴史のなかに位置づけると、岩和田が昔はお茶屋や蕎麦屋や旅館があって繁盛していたとか、芸者もいて花札も盛んだったという著者が聞き取った親類のお婆ちゃんの昔話が、ただ漁師の豪放な文化の話というよりは、大都市の商業的発展と深く結びついていた話だったことが分かる。江戸に幕府が開かれたこととも結びついて、漁師たちは西から東へと移住してきたのだから。だから外房の漁村は、本当に商業的に豊かだったと考えなければならない。そして近代になって産業構造が変化したからこそ、漁民たちは外房から新しく儲かる商売を求めて戸越銀座あたりに移住してきて、著者の代にまで辿りついたのだ。

 こうして本書を通して、著者は自分が当たり前のように考えていた家族の「文化」のありようを何重にも覆されてしまう。自分の趣味の問題と思っていたことが、祖先の文化の伝承だったかと思えば、その伝承された漁民文化が保守的なものであるどころか進取の精神に満ちていたものだったりする。こうした著者の営みを通して私たち読者は、日本の「文化」が予想以上に多様な豊かさを持っていること、そしてその豊かな文化の痕跡が日常世界のなかに潜んでいることに気づかされる。だから改めて自分の日常の営みのなかに多様な「文化」の痕跡を探り当てるように、感性を研ぎすますことを促されるだろう。それこそが、カルチュラル・スタディーズという名前の営みなのだろうと改めて私は思う。

(付記)本書の素敵な題名にある「コンニャク屋」の意味を説明するのをうっかり忘れてしまった。岩和田の星野一族の漁師としての屋号である。なぜ「コンニャク屋」なのかは、親類一同よく分かってないらしい。本書を読んでも分かったような、分からないような。何とも不思議な本である。


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