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『中村屋のボース−インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書の著者中島岳志は、「私の二〇代は、この本を書くためにあった」と「あとがき」の冒頭に書いている。若者の社会意識が希薄だといわれ、大学になんの目的もなく入学してくる学生が多くなっているのを年々実感として感じている者にとって、まずは著者が青春をかけてなにを言おうとしているのか、耳を傾けたくなった。

 「中村屋のボース」ことラース・ビハーリー・ボースは29歳のとき来日した。その同い年のときに、著者は本書を執筆した。そして、ボースが活動した場所を訪れ、追体験することに執着した。植民地政府の有能な事務員として平穏な生活を送ることができたはずのボースが、やがて独立運動に目覚め、総督爆殺未遂事件や兵営反乱事件の首謀者となって、日本へ亡命せざるをえなくなった。著者は、ボースが「日本のアジア主義者たちと共通する文明論的課題を背負い、超越論的観点から「近代の超克」を目指した人物であ」り、「近代を超克するためには戦争や武力闘争という近代的手法を用いざるを得ないというアポリアを常に背負い、それと懸命に格闘しながら行動し続けた人物であった」と結論している。しかし、ボースの叫びは「近代日本の時代精神と難問を引き受け」たにもかかわらず、1945年1月の死後、無視されつづけた。残ったのは、逃亡中のボースが匿われたのが縁で名物となった新宿中村屋の「インドカリー」(イギリス化した「カレー」ではない)だけだった。そのことが、著者には許せないようだ。

 近年、日本人若者にとって、アジアが身近になってきた。大学でもヨーロッパ言語の履修学生が減り、中国語が圧倒的な人気だ。朝鮮(韓国)語やタイ語などほかのアジアの言語も、学生にとって身近になってきている。東・東南アジアの芸能界は、もはや一体化していると言っていいだろう。インドも映画、IT産業、新たな投資先として注目されるようになってきている。そのいっぽうで、近代日本とアジアとの関係史について、日本の若者はほとんど知らない。戦前・戦中の日本の進出・侵略や占領の痕跡は、アジア各地の街角に歴史案内板が付されて残されており、通り行く人たちが日常的に目にしている。博物館でも、日本がもたらした戦争について大きくとりあげている。日本とほかのアジアの歴史認識の相違は、若者にとってアジアが身近になればなるほど拡大していくようにみえる。  テロリストであったボースは、日本のアジア主義者を利用することによって、インドの独立を目指そうとした。しかし、対英戦争になって逆に日本に利用され、同胞インド人からも見放されていった。それは、ナショナリストのボースにとっては、なんとも悲しいことだった。日本のアジア主義には、「アジア人のためのアジア」ではなく「日本のためのアジア」という限界があった。大東亜共栄圏という日本主導のグローバル化で、日本人にとってアジアは一気に身近になった。しかし、多くの日本人はアジアの人びとにも社会にも関心がなく、アジアを日本化を推し進める場所としてしかみていなかった。

 いま著者のような若い世代が、「近代を超克」した目でアジアを見はじめている。著者がボースにこだわりつづけたのは、ボースのインド独立にかける熱情・人柄だけではなく、ボースが生きた時代のアジアと自分が生きている時代のアジアがだぶって見えたからではないだろうか。テロという暴力でしか問題の解決を見いだせなかった20代のボースと、現代のさまざまな問題を意識しながらなにかしっくりとしない自分とを、重ねあわせていたのではないだろうか。だからこそ、ボースと同じ空間を味わいたくて、かれの足跡をたどり追体験したのではないだろうか。

 著者は、すでに『ヒンドゥーナショナリズム』(中公新書ラクレ、2002年)で、インド社会の現状を報告している。書き慣れた筆致は、読者を一気にボースの世界へと誘う。難をいえば、中盤で研究者としての著者が現れ、筆致が鈍ってわかりにくくなったことだろう。すこし欲張りすぎたかもしれない。ヒューマン・ドキュメントとは別に、学術的に論じたほうがよかったように思えた。今後が楽しみだ。

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