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『アフリカ「発見」−日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書は、世界歴史選書の1冊として出版された。しかし、このような優れた歴史書は、従来の日本の大学・大学院の歴史教育歴史学研究からは生まれてこないだろう。

 本書は、4章からなり、最初の3章は信長・秀吉(「桃山」は江戸時代になって桃が植えられたための名称で、秀吉の時代には「桃山」ではなかった!)の「遭遇の時代」から江戸時代の「迷走する「黒坊」像」、さらに明治になって大日本帝国とアフリカとの関係を表象する「旭日と闇黒と」になっていくことを、時系列的に記述している。そして、最後の第四章「イメージの檻−大衆文化にみるアフリカ」で、近代日本におけるアフリカのイメージがどのように形成されていったのかを追っている。

 著者、藤田みどりの本書執筆の原点は、「アフリカ人作家の描き出す豊饒なアフリカ世界と、一般的なアフリカイメージとの懸隔にあった」という。そして、その日本人のアフリカ認識は、「英国におけるアフリカ像の変遷の影響抜きには語り得ない側面がある」と、紙幅の関係から割愛せざるを得なかった「英国でのアフリカ・イメージ」について、充分に語れなかったことを惜しんでいる。なにより、著者の言いたかったことは、資料の関係で充分に語ることができないアフリカ人のヨーロッパ人観などであったのではないだろうか。そのことは、「その昔、アフリカ大陸にヨーロッパ人が進出し、裸体に近いアフリカ人を見て笑った時、彼らもまたアフリカ人たちから笑われていたことを、ヨーロッパ人は長いこと知らなかった。笑うということは、笑われることでもある」という「あとがき」の文章からもわかる。著者は、交流史の相渉的視点の原則、第三者の影響といった多角的なアプローチから、歴史的事実を相対化したうえで、イメージの形成を考察・分析している。

 また、著者は、日本・アフリカ関係史を比較文化の視角から光をあてることによって、近代日本の矛盾にも気づいていく。ボーア戦争では、日本の知識人がオランダ系ボーア人に同情を寄せながらも、そのボーア人が人種差別者であったことに気づいていない、と指摘する。人種差別に憤慨しながらも、日本人だけが有色人種から抜け出し「名誉白人」たろうとした近代日本の知識人の限界を、はっきりととらえている。

 著者は、一貫して「アフリカ」について論じている。しかし、東南アジア史を専門とするわたしにとって、本書で使われた史料・文献にはなじみがある。このことは、いったいなにを意味するのだろうか。ヨーロッパと連動する日本のアフリカ観は、東南アジア観にも共通するものなのだろうか。じっくり考えてみたくなった。

 さて、冒頭で書いたことに立ち戻ろう。総合文化研究で博士号を取得している著者が書いた本書を、「日本史なのか、西洋史なのか」と訊くことはばかげている。しかし、そう訊かれるかもしれないし、図書分類されるときに困ることになるだろう。それは、現実に日本の多くの大学・大学院で、原史料の言語の違いから排他的に日本史、東洋史西洋史と分かれて教育・研究され、教員もそれぞれの分野で研究・教育職を得ているのが現状だからである。

 国民国家の枠組みが以前ほど大きな意味をもたず、歴史を含めたナショナル・スタディーズが学問的に意味をもたなくなりつつあることは、もはや多くを語る必要はないだろう。かつて普遍性をもたない地方史が郷土史となって学問から切り離されたように、このままではナショナル・スタディーズも学問とは別次元で語られるようになっていくだろう。いっぽう、近代をリードした西洋の思想・価値観を日本に紹介する西洋史研究の役割は終わった。長年の研究蓄積があり、非ヨーロッパ人による業績を評価しない西洋史研究に、切り込めるだけの実力のある日本人研究者は、そう多くはいないだろう。中国史は、あの膨大な人口のなかのエリートが自国史研究に目覚め、排他的に史料を使いだしている。日本人研究者は、それにどう立ち向かえるのだろうか。「アカデミズムのための研究」としての歴史学は、もはや従来の日本史、西洋史東洋史研究では、立ち行かなくなっている。

 事実、歴史が中心と考えられる講座でも、執筆陣のなかで歴史研究者は少数派になってきている。たとえば、今秋から刊行される『岩波講座 アジア・太平洋戦争』全8巻の延べ100人を超す執筆者のうち、歴史研究者を自認する者は数えるだけしかいない。  従来の歴史教育・研究は、学際的幅広い教養が求められている現代社会のニーズにも応えていない。高等学校の歴史教育でも、世界史は各国史の寄せ集めではなく、ヒトやモノ、思想や情報が交流する広域世界のマクロなダイナミズムと人びとの生活の営みを感じさせるミクロな社会を理解させることを目指し、日本史は世界とくに東アジア世界のなかでの日本の歴史を考えさせることを目指している。文献からだけでなく、絵画や建築など文字ではない史料から、歴史を理解させようともしている。このような歴史を生徒に教えることのできる人材も、従来の歴史教育・研究では育てられないだろう。「歴史学の危機」は、本来時代を敏感にとらえる学問であるはずの歴史学を研究している者が、現代という時代を的確に捉えて教育・研究していないことに大きな原因がある。

 学校教育で歴史が教えられ、入試科目にもあり、カルチャーセンターでも一定の受講生を得ていることから、社会的ニーズがあると勘違いしていることにも大きな問題がある。それは、学問とは別次元のことである。大学入試センター試験の日本史の出題が、時代ごとであるのもいかがなものだろうか。日本史研究者は、時代ごとにしか研究していないから、時代ごとにしか問題を作成できないのだろうか。世界史の問題でも、出題者は教科書や学習指導要領を読んだことがあるのだろうか、と首を傾げたくなることがある。

 本書のような時代も地域も超えた研究は、いま学際的研究分野からだけでなく、建築史のような理科系の分野からも、優れたものが出てきている。歴史学の「最大の武器」は、原史料を丹念に読むことだ。いまも、その重要性は変わらない。その「武器」を最大限に生かすためには、時代ごと、地域ごと、史料の言語ごと、といった閉鎖的な教育・研究方法を改め、学際的な広い視野の下で、原史料読解によって得た歴史学の知識を生かすことだろう。「文献史学を超えられるのは、文献史学だけだ」といえるだけの研究成果が出てくると、本書のような歴史研究と張りあい切磋琢磨することによって、歴史学も学際的研究も発展していくことだろう。

 このままだと、日本における学問としての歴史研究の未来は危うい。

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