『血の婚礼』(東北新社)
「ストイックな魂のうねり
スポーツシートにGを感じるような
書評が始まらない(後編)」
指が鷹のように先が細くて鋭くなり、完璧を目指さなければいかん、と。私はナイフを抜く瞬間をこの眼で見た。本当に刺し違えるかと思った。
1986年春、来日。
いつもの"All That Jazz"の主人公ロイシャイダーは毎朝シャワーを浴びて、タバコをくわえながら鏡の前で"It's a show time, folks"とおどける。ショウビジネスでは、自分の生活とshow timeのどちらが現実の生活か分からない。この作品もノンフィクションなのか演出なのか、どこまでがドキュメンタリーでどこまでがリハーサルでどこまでがフラメンコでどこまでが映画なのかクロスする仕上がりになっている。人生は劇中劇、その観る者を困惑させて引きこむ快感。
ガデス曰く「日常を演技し、舞台の上で生きろ」と。
とにかくアントニオガデスのオーラは凄い。来日した時の舞台はもっと凄かった。
足元を照らすダウンライトに、むしろ顔に影が入るような照明演出。
静かに繰り返されるステップ、手拍子、それらが徐々に徐々に織り重なり、ステージの上で大きなうねりになる。大きなうねりは劇場全体に広がって行く。こんなことってあるのか。人が来る。人が波となって来る。ステップ幅は小さいのに、どんどん私に向かってくる。思わず座席に座りながら後ずさりするような。このストイックな魂のうねり、静かに加速されて、スポーツシートにGを感じるような。
彼のストイックな魂は、観る者の心を揺さぶる。
同じ体を動かすにしても、無駄のない、そして、曲線を描くにしても、その最短距離を結ぶようなイメージで空間を切り抜く。
パコデルシア(ギター)も天才だが、アントニオガデスは修行僧のような天才だ。
だからと言って私はフラメンコに詳しい訳でもなく、他のフラメンコを見聴きする訳でもなく、ただアントニオガデスにたどり着いただけという。ただそれが窮極の感覚に近いと中々その先には行かず、その系譜も彼で止まっている。
そこまで、そこまでしなくてもいいだろう。
そこまで、そこまで素顔を見せなくてもいいだろう。
最期の儀式にも似た、手慣れて並べる化粧台、手拍子、ステップが始まる。
分かるか、この凄さ・・・
言葉はそこで途切れる。
列車はピレネを横切る。
予約したはずのコンパートメントには、少しかっぷくの良いお母さんと5人の子供達が座っていた。下は3〜4歳か、上は中学生位まで、男の子か女の子か何れにしても顔を見れば兄弟だと一目で分かる。「ここ予約しているんだけど」と英語で行っても、何語だか分からないが、多分「あたし達が先にいたんだから」と言っているのだろう。ありがちの光景。車掌さんが通りがかり、乗車券を見せると、何だかんだとその家族に説明してくれて、そのお母さんは少し不満な感じで何だかんだ言いながら子供達に荷物をまとめて移動するように指示し始めた。私は通路でその家族が片付けるのを待っていたが、こうなると何だかこっちが申訳ない。無邪気な子供達は次はどこに行くんだ?みたいな感じで、はしゃぎながら一段となって狭い通路を出て行った。その最後に、お母さんに手を引かれた末っ子であろう女の子だけがこっちを振り向きながらニコッと笑って小さく手を振ってくれた。
私も目と口だけで笑って、腰の横で小さく手を振った。そのまま切り抜いておきたいような1カット。
大きくなって家族の前でフラメンコのお遊技を踊って見せてくれよな。兄弟家族みんな元気でな、と。
ようやくコンパートメントに座りバックパックを降ろす。
窓の外にはまだピレネが広がる。真っ青な空に、乾いた岩肌がクッキリとはえる。あの空にはアンダルシアの夏、そしてブエルタ・ア・エスパーニアの乾いた風が吹いていた。その向うから、あの手拍子と共にステップの音が徐々に聴こえてくるようだった。