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『新版 雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 もう10年以上前になるだろうか。マニラの特派員から「16世紀末のヨーロッパの沈没船から日本刀が出てきた!」と、興奮気味の電話があった。「この時期の沈没船から日本刀が出てくることは、不思議なことでもなんでもない」と、当時の歴史的状況を説明したことを覚えている。本書を読んでいれば、この特派員も驚いて電話することもなかっただろう。

 「私にはその反省がある」「当時はとても信じられなかった」「偏見はむしろ私の方にあったようだ」「神話のひとつにほかならなかった」「やはり見直しの必要があるだろう」「私の思い込みを裏切って新鮮である」という文章が、本書で目についた。著者、藤木久志は、いったい本書でなにを書こうとしたのだろうか。

 著者は、「英雄中心の伝統ある通俗戦場論に逆らうのは大きな冒険である」と「プロローグ」で吐露している。その「通俗」から著者を脱出させたのは、西洋法制史やドイツ中世史の研究から学び、視野を朝鮮や東南アジアにまで拡げたことで、「つい日本の中のことばかり考え、一国史観に陥りがちな私に、大きな衝撃を与える」ことに気づいたからであった。

 著者が、「英雄たちの戦場」から「雑兵たちの戦場」へと目を移したのは、かつての研究が「戦国社会の焦点にあったはずの、戦争の惨禍についても、平和な暮らしのもたらした現実についても、何ひとつ明らかにすることはできなかった」からであった。本書を読んでいくと、著者がアカデミズムのためだけの研究から、今日の社会を見つめたことによって、時間と場所を越えて戦場の人びとが具体的に見え、「戦争と平和の社会史」を追求する研究へと目的意識が変わったことがわかる。そして、従来無視されてきた史料のなかに、「戦場の惨禍の陰には、放火・苅田や物取り・人取りに熱中する雑兵たちの世界」を見ることができるようになった。

 雑兵たちの目から見ると、農業だけで食べていけない者にとって、戦場は数少ない稼ぎ場であり、食っていくためにも積極的に参加した事実がわかってきた。豊臣秀吉が朝鮮まで戦場を拡大したのも雑兵たちを食わせるためであり、出兵した日本人は朝鮮から土産でも送るように朝鮮人を捕まえて(拉致して)日本に送っていた。著者は、これら朝鮮での人取りをかつて信じることができず、異常な出来事としたり、誇張されたものと考えていたが、偏見をなくして史料を丹念に読んでいくと、それは日本国内の人取り習俗の延長であり、さらにヨーロッパ人による日本人奴隷の海外流出の原因になっていたことが明らかになってきた。そして、雑兵たちの食う場を、都市、鉱山開発、築城に見いだし、ようやく「中世の戦場」から「秀吉の平和後の社会」(近世)へと移っていった、と結論できるようになった。

 さらに、著者はこの雑兵たちの動向の影響は、日本国内にとどまらなかったことを「エピローグ」で紹介し、今後の課題を展望している。ヨーロッパ人がはじめ香料を求めて東南アジアに進出し、現地社会にも大きな変動をもたらした16世紀から17世紀にかけて、日本人の傭兵・奴隷、日本製の武器は、各地の王都や港で見られた。日本が当時の国際紛争に巻き込まれる危険性は大いにあったどころか、日本人はその渦中にいて新たな紛争の火種になることさえあった。

 本書は、著者が一国史観から脱し、学問としての歴史学を考え、世界史認識をもったことで、従来語られることのなかった日本史の一面が見えてきた、ブレイクスルーの一書と言っていいだろう。日本史がより深く、より豊かに考察できるようになったのである。こういう視点から日本史を見直すと、研究の蓄積と研究者の数が多いだけに、いろいろなものが見えてくるはずである。そうなると、日本史はもっともっとおもしろくなる。

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