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『日露戦争の世紀−連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書)

日露戦争の世紀  →紀伊國屋書店で購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 近くの神社や公園にある立派な記念碑を見ると日露戦争記念のものだったり、多くの日本人が春に楽しみにしている桜も日露戦争戦勝記念に植えられたものが少なくなかったりで、日露戦争は今日でも身近な存在です。桜は、パッと咲きパッと散る潔さから軍国主義の象徴となり、接ぎ木で増えたソメイヨシノはすべて同じ遺伝子をもつクローンで全体主義思想の時代にふさわしいものでした。ちなみに、それまでの春の花は梅で、桜は山桜の白い花が一般的でした。正露丸も戦後1949年に厚生省が指導するまで「征露丸」で、普通名詞で現在でも数十社から発売されているため、最大手は「ラッパのマーク」と連呼して宣伝しています(いまでも1社は征露丸)。

 2005年は日露戦争が終わって100年になるだけでなく、第二次世界大戦終結後60年、日韓国交回復後40年など、さまざまな意味で歴史的節目になる年にあたる。著者、山室信一は、その節目にあたって、研究書では充分に伝えることのできなかった「日本とアジアのかかわりをめぐる歴史」を簡潔に表現し、とくに次代を担う若い人たちに読んでもらうことを目的に本書を執筆した。そして、日露戦争をキーに、前後100年と戦後100年(20世紀)という二重の意味での世紀を、時間や空間を超えた連鎖の視点で理解してもらおうとしている。そこには、「自らを誇りたいためか、人と人とを離反させることに愉悦を見出すような歴史書が少なく」ないなかで、「人と人とを繋いでいくためにこそ歴史に学」んでほしいという著者の思い入れがあり、「21世紀を「非戦の百年」とする」強い願望がある。

 そのように著者に感じさせたのは、日中と日韓、日・中・韓をめぐる国際学会やシンポジウムに出席して、日本と中国・韓国とのあいだには、あまりに違う対極的なムードがあったからである。著者が「中国や韓国で感じたのは、歴史認識に対する日本の不実さ、あるいはその振れ幅の大きさに対する静かな憤りのような気運」だった。にもかかわらず、著者には、「本書の内容では、東アジアにおける植民地統治問題や戦争にかかわる歴史認識という現在の争点に、答えることにはなっていない」という欠落感と悔いが大きく残った。しかし、わたしたちにいま必要なことは、著者のいう「まず近代の日本がいかなる世界史的な環境に置かれ、それにどう対処してきたのかを明らかにしておくこと」から始めることだろう。だからといって、本書はただの概説書ではない。随所に著者ならではの鋭い考察・分析力が見られ、研究者にとっても充分に読みごたえのある新たな日露戦争史観を提示したことは間違いない。その意味で、本書が出版された意義はきわめて大きい。

 本書は、日本思想史を中心とした研究蓄積の成果だといっていいだろう。それだけに気にかかることがある。「連鎖視点から見る」という発想はひじょうに意味のあることだが、「日本と世界」はまだしも、東アジア以外のアジアの視点から見るためには、研究蓄積が乏しいだけに問題がある。視野を広げても結局は、日本中心史観や欧米中心史観に陥ってしまうか、議論にもならない比較になるかのどちらかになってしまう。後者では、たとえばウォーラーステインの「近代システム」の西洋中心主義を批判したフランクの『リオリエント』(邦訳、藤原書店、2000年)がある。利用されたアジア関係の資料のなかには、資料の性格が違うことからとても危なくて使えないものがあり、比較の議論になっていない。本書は、前者の例になるだろう。「切り捨て御免」の国(幕末の日本)にたいして領事裁判権を求めたのは、近代法を整えた国家としての当然の要求で、「不平等条約」ではない(もっとも、領事裁判権はしばしば悪用されたことから、「不平等条約」ということもできるが)。その領事裁判権の撤廃に苦しんだ日本がタイに領事裁判権を認めさせ、欧米列強が撤廃した後も撤廃を条件にタイに領土の割譲を要求しつづけた「帝国日本」の姿こそ、問題にする必要がある。また、本書では、国際的に華々しく登場する日本がおもに語られ、当時東北・東南アジアを中心に世界中に数万人はいた日本人売春婦「からゆきさん」や、奴隷労働にかわる苦力労働として海外に流出した貧しい日本人は描かれていない。戦前・戦中の「帝国日本の学知」だけでなく、現在の日本の学知にも、多くの問題がある。

 もうひとつ気になったのは、当時の国際関係や思想の連鎖はわかっても、その背景にある日露戦争後の飛躍的な貿易量の伸びが語られていないことだ。アジア市場に、はじめ「安かろう悪かろう」の粗悪日本製品が進出し、やがて「安かろう良かろう」の日本製品があふれたことと、連鎖とは関係ないのだろうか。社会や生活が見えてこないのは、本来書くはずであった「法政思想と大衆演芸のかかわりをテーマとする新書」にとっておいたのだろうか。時代的な連鎖や空間的な連鎖はわかっても、モノやヒトの移動との連鎖はわからなかった。「頭でっかち」の連鎖の印象を受けたのは、そのためだろう。  著者は、高校生にも読んでほしいということから、ですます調のわかりやすい文章にしたり、難解な語句には解説を加えたりして、工夫を凝らしている。それは、著者の講演を楽しみにし、研究者でも難解な大部の『思想課題としてのアジア』(岩波書店、2001年)を読破しようとし、講演中は一言も聞き漏らすまいと一所懸命にメモをとるというような若者を対象とするなら、成功したと言えよう。しかし、「からゆきさん」の存在も名称も知らないような多くの学生には、なお難解である。新書にしては長い人名索引が必要なほど多くの人名が出てくるが、著名だと考えられるものすら知らない学生は絶望的になって、読むのをやめてしまう。全体として、著者の博識のために詰め込みすぎたようだ。学生相手に講義を積み重ね、学生の理解度を確かめながらでないと、教材を作るのは難しい。いい教材があれば、それに反応する学生も少なくない。

 ともあれ、『増補版 キメラ−満洲国の肖像』(中公新書、2004年)の補章でも24のQ&Aを設けて、「アジアと日本の断絶」の原因を若い人に知ってもらいたいという著者の念いと試みに敬意を表したい。

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