『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会)
本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。
まず、「終論「イスラーム世界」史との訣別」という目次の最後が気になった。わたしは、通常「はじめに」と「おわりに」をはじめに読む「キセル読み」をして、本の全体像をつかんでから本を読むことにしている。推理小説ではないのだから、結論を知ったほうが理解しやすいし、場合によってはそれで終わりということにもなる。本書は、その「終論」が気になって、「おわりに」のつぎに「終論」を読むことになった。
「おわりに」の冒頭にも、ドキッとした。「何よりもまず自己批判から始めねばならない」ではじまり、「研究を進めるにあたっての大前提の枠組みに対して、あまりに鈍感だったと大いに反省している」で、最初のパラグラフを終えている。著者、羽田正はなにか大きなものが見え、それを自信をもって語ろうとしている。大いに期待がふくらんだ。そして、読み終わって、その期待が本物であることを知った。
本書の主張は、きわめて明快である。著者も、「時間に余裕がない読者は、各部の結論だけを読めば、私の主張のポイントは理解できるはずである」と明言している。簡略にまとめると、19世紀に創造された「イスラーム世界」という概念は、当時のヨーロッパで生まれた世俗化を背景とした「近代という時代に特有の言説であ」り、日本では1930年代に戦略的に結びつけられて突如「発見」された「アジア主義や大東亜共栄圏構想の遺産」である、ということになろうか。したがって、「現代世界の成り立ちを理解するための世界史にはもはや不要である」と結論づけている。そして、新しい世界史は、「過去のある時代に一つの地域を設定し、その全体像を地域研究的手法によって明らかにしたうえで、現代世界をそのような歴史的地域がいくつも積み重なったうえに成立したもの」と理解し、「人間と環境や生態の関わり方の歴史を説明するものでなければならない」と主張している。
著者が、「「イスラーム世界」史という歴史叙述の枠組みが持つ問題点に気づ」いたのは、ヨーロッパ研究者や理系研究者との交流があったからである。著者の近代からの離脱は、近代に学問的基礎をもつ自分の狭い専門分野を相対的に見ることからはじまった。そして、「イスラーム世界」という概念を史学史を通して検証することによって、現代における虚構性を明らかにしていった。本書は、近代に創り出された概念を、原点に立ち戻って考察することの重要性をみごとに示している。「イスラーム世界」だけでなく、枠組みそのものを問い直さなければならない無数の「近代の亡霊」に立ち向かう好事例となろう。その「亡霊」が消えたとき、わたしたちは現代社会に通用する「世界史」を手に入れることができる。
本書で気になったのは、「世界」という上からの概念が検討されているが、「社会」という下からの概念が語られていないことだ。「イスラーム世界」の東の端は今日のインドネシアのマルク諸島(香料諸島)にあったテルナテ王国・ティドレ王国であろうが、アラブ商人・伝道師の活動がこの地での「イスラーム社会」の形成に大きくかかわっていた。フィリピン南部のイスラーム王国とこれらの王国のあいだには、キリスト教徒が多数を占めるスラウェシ島北部のミナハサ地方とその北のサンギヘ・タラウド諸島があるが、これらの「キリスト教世界」でもイスラーム教徒の存在は社会にとって無視できないものであった。とすると、本書で検討された「イスラーム世界」の4つの定義のほかに、「イスラーム社会」を考察要因に加える必要があるのではないか。これら辺境とみなされる地域に住むイスラーム教徒は、すでに数世紀にわたって巡礼や商業活動によって「イスラーム世界」と結びついている。イスラームの存在とともに形成された歴史と文化が、社会の基層をなしているからこそ、イスラーム教徒ではない人びとも、イスラームを信仰する人びとが周囲に日常的に存在する社会を、容認してきたのではないだろうか。本書で地域名だけが出てきて実態が語られていない、東南アジアやアフリカのイスラーム教徒の視点から考察すると、排他的ではない共存する「イスラーム世界」が現れてくるかもしれない。
それにしても、羨ましい。イスラーム研究には、これだけ語るだけの現地、ヨーロッパ、日本の研究蓄積がある。発達しすぎて議論が些末になるようなこともなく、視点の違いから比較もできるということから、著者は「イスラーム世界」を根底から問い直すことができたのだろう。本書は、イスラーム研究から今後の学問の広がりを期待させる一書である。