『掠奪の法観念史-中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』(東京大学出版会)
本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。
人はなぜ、平気で他人を殺し、平気で他人のモノを奪うことができるのだろうか。今日でも、わたしたちが生活している社会の倫理観や法律に照らして、理解できないことが多々ある。歴史研究にとって、もっとも重要なことは、その時代・その社会の常識を理解し、その常識に基づいて過去に起こったことを考察・分析することだ、とわたしは考えている。しかし、いまの常識に毒されているわたしたちにとって、それは不可能なことだ。だから、わたしはその時代・その社会に生活していて、状況を把握している人が書いたもの(同時代・同社会資料)を探し、その資料に語らせることによって、その時代・その社会を理解しようとしている。上記のような疑問を自分自身で原史料を用いて明らかにする前に、これまで平気で他人を殺し、平気で他人のモノを奪うことのできる倫理観や法律を研究したものはないのか、探していた。そのようなとき、本書に出会った。
著者、山内進はヨーロッパ法制史を専門とし、古代・中世・近世ヨーロッパで、戦時における掠奪が「「自明」であり「慣習」だったというだけではなく、その行為をより積極的に正当化する何ものかがあったのではないだろうか」という自問から発して、「騎士的慣習法、教会法や神学理論、ローマ法および自然法と深く関わる学識法を包括する意味での戦争法へと考察を進め」た。その結果、古代ローマにおいてはローマ市民、中世ヨーロッパにおいてはキリスト教徒以外の者は基本的に「敵」で、その生命・財産は「勝者」の自由であったことを明らかにしている。それが、初期近代17世紀になると正戦のもとでの掠奪=捕獲の法的正当性の観念が崩れはじめ、18世紀末から19世紀になって中・近世ヨーロッパ世界に特有の意味・観念の根本的な変革が完遂されることになった、としている。そして、19世紀中葉以降、戦時下における私有財産の尊重を原理的に自明とする条約が結ばれるようになり、1899年のハーグ条約では「掠奪ハ之ヲ厳禁ス」という条項が加えられ、占領地の人民の権利が尊重されるに至った。
著者は、「掠奪の法観念」を歴史的に描き出すことによって、「中・近世ヨーロッパ世界」を理解しようとした。そのことは、「中・近世ヨーロッパ世界」が古代からどうつながり、近代へどうつながっていくのかを明らかにすることになった。歴史研究が目指す時代と社会の把握を、法制史という専門性をいかして、みごとに描き出したということができるだろう。また、史料を丹念に読みこなし、基本に忠実に考察・分析して、ひとつひとつの疑問を明らかにしている。「難題」を扱うには、いかに基本が重要であるかを、見本として示したような研究である。学ぶことが多かった。
本書の成果を発展させて考えると、わたしが専門とする海域世界の「海賊」のとらえ方も違ってくる。「海賊」をアウトロウと捉えたのも、近代を通してみた偏見であったことがよくわかった。ある人びとにたいしてひじょうに温情的であった「海賊」が、別の人びとにたいしてひじょうに残酷であったことも、「敵」とみなしたかどうかにかかっていたことがわかった。しかし、「海賊」をロウフルにどう描くか、まだわたしにはわからない。大きな課題をいただいたような気分だ。
また、近代ヨーロッパに「掠奪の非合法化」が完成したにもかかわらず、その後も「掠奪」は収まらないのはなぜか、これも現代社会の大きな課題だろう。そして、本書で明らかになった戦争の形態の変遷が、いままた変化しようとしている。法観念も、近代ヨーロッパが生み出したものから変わろうとしているようにもみえる。基本に戻って、いま現実に存在しているさまざまな倫理観や法観念を考えることによって、人が平気で他人を殺したり、平気で他人のモノを奪ったりしない社会にしていかなければならない。つまり「敵」のいない社会にしていく必要がある。しかし、いっぽうで過度に人権を擁護すると、平気で他人を殺したり、平気で他人のモノを奪ったりする人を、社会に野放しにすることになる。難しい!