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『来たるべき世界のために』(岩波書店)

来たるべき世界のために

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デリダの思考のプロセスを追うために」


フランスの哲学者、ジャック・デリダ精神分析家のエリザベト・ルディネスコの長~い対話だ。ルディネスコには、フランスにおける精神分析の歴史についての著書があり、ラカンの伝記『ジャック・ラカン伝』は邦訳されている。この対話には、刊行当初からさまざまな書評が発表されたが、どれも不評だった。なれ合いの対話にすぎないというのだった。そのため、デリダの著書に関心のあったぼくも、この書物の原書を取り寄せなかった記憶がある。

たしかにいまこうして読み直してみると、デリダとの対話の相手としてはルディネスコは軽すぎる。ほとんど専門の精神分析の分野でしか意見を語ることができていない。対話の相手としてはクリステヴァの方がよかっただろうし、読んでいて何度もデリダクリステヴァと話しているような錯覚に陥った。それでもルディネスコはデリダに自分の思考のプロセスを語らせるための誘い水のような役割を果たしていて、予想外に読みがいのある本となっていた。

昨年亡くなったデリダはこれまで毎年、社会科学高等研究所という、いわば大学院のようなところで多数のセミナーを開催してした。死刑について、赦しについてなど、重要なテーマが取り上げられているが、これまでのところその内容は公表されていない。セミナーの記録はフーコーコレージュ・ド・フランスの講演記録のように、やがて発表されると期待したいが、それまではこの『来たるべき世界のために』が、デリダのセミナーの内容を推測するための重要な手掛かりになるだろう。

たとえば「予測不可能な自由」の章では、クローニングについてのデリダの留保が語られる。デリダは別の文章で、家族を愛するということは、自分の中の他者を愛することだと語っていた。そのことからも、自己を再生する技術としてのクローナングには批判的だろうと予想していた。ところが意外にもデリダはクローニングそのものに対して、こうした哲学的なスタンスから批判することを控える。

医学的にはすでにさまざまな方法でクローニングと同じような営みが行われているのであり、それに「他者」の思想から反対するという「安易な」道を避けるのだ。ハーバーマスのように、生の一回性という視点からクローニングを批判するのはたやすいのだが、実際にすでに迂回した形でクローニングと同じ意味をもつ技術が適用されていることから、目をそむけてはなるまい。

また「動物たちへの暴力」の章では、動物実験に反対する議論が展開されるが、それも動物性への問いという視座からであり、単純な動物愛護を目指すからではない。そして動物に権利を認めるという一部の運動にたいしては、これは「人間主体にかんするある特定の解釈を強化する隠微の、ないしは暗黙のやり方」であり、「人間以外の生けるものたちに対する最悪の暴力」(九六ページ)であることを指摘する。デリダの意外にバランスのとれた姿勢には好感をもつ。

またデリダの死刑についてのこだわりは強い。プラトン、カント、ルソー、ヘーゲルにいたるまで、ほとんどの哲学者は死刑を問題にせず、かえって死刑の重要性を強調してきた。しかしデリダは、目には目をというタリオ(同害報復)の刑罰としての死刑は、たんなる処罰の一つではなく、法律による処罰の「超越論的な」根拠とまでなっていると考える。死刑とは、存在-神学-政治的なものを溶接するもの、人間の法権利の核心となるもの、法律と権利の体系の「ドームの要石」のような役割を果たすもの(二一三ページ)と考えるのである。

アメリカ、中国、アラブ諸国では死刑をいまだ実行し続けている。もちろん日本も例外ではない。デリダも日本の死刑に注目しながら、死刑のプロセスが公開されないこと、公的な情報の対象とならないことの特異性を強調する。死刑が暗闇のうちに実行されること、誰も知らないうちに死刑が執行されること、それをそもそも〈死刑〉と呼ぶことができるのか、それに「死刑という言い方ができるのか、さだかではない」(二二一ページ)という。そう、それはカフカの『判決』のように、誰もしらない場所で、犬のようなみじめな死を与えられるプロセスのようにもみえる。

それだけではなく、この書物にはアメリカのポリティカル・コレクトの概念が、危険な罠になることを指摘するなど、いかにもアクチュアルな発言がちりばめられている。軽く読み流せるところと、じっくりと、しかもデリダの別の書物を参照しながら深読みをすることを求められる場所とがあるが、デリダの思考の広がりをしっかりと理解できる一冊となっている。

書誌情報

■来たるべき世界のために

■J.デリダ,E.ルディネスコ[著]

■藤本一勇,金澤忠信訳

岩波書店

■2003.1

■346p ; 20cm

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