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『刀狩り-武器を封印した民衆』藤木久志(岩波新書)

刀狩り-武器を封印した民衆

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 著者、藤木久志は、小説や映画・テレビの時代劇に出てくる「丸腰の民衆像」を虚像だという。歴史教科書で常識と考えられてきたことが、なぜ否定されるのだろうか。本書では、豊臣秀吉刀狩令をまず中世に遡って考察し、江戸時代への影響、さらに近代の廃刀令、戦後のマッカーサーの「刀狩り」まで視野を広げて分析している。そして、日本の「刀狩り」は、徹底した武装解除ではなく、武器の携帯・所持を限定しただけの武器封印の歴史であったと結論している。


 通説に果敢に挑み、ひとつひとつ根拠となる史料をあげて、「刀狩り」の実態を明らかにしていく手法に、実証的文献史学の着実さ・確実さをみた思いがした。しかし、学問としての歴史学を基本に考察・分析をすると、もっと異なった歴史研究の奥深さが浮かびあがってくる。日本近世史では、近年「鎖国」も「なかった」という説が出ている。わたしは、18世紀初めの享保年間に、日生(岡山県)からルソン(フィリピン)やアユタヤ(タイ)に千石船を仕立てて渡航している者がいることや、瀬戸内周辺にキリスト教徒がいたことを示すゼウス像や十字の入った墓があることから、鎖国ばかりではなく、キリスト教禁令も徹底しておこなわれなかったとを感じている。このような通説とは違う事実を、歴史学としてどう理解するのかが、歴史学のいまの、そして将来への必要性を物語るものだと考えている。


 近代からポストモダンへの転換点をどこに置くかは、どこに焦点を置くかで一定しないが、いまが時代の転換点であることは、大方の研究者が認めることだろう。歴史学も無縁ではなく、かつての歴史研究の矛盾と限界が明らかにされるのも、新しい時代の歴史研究への模索からだろう。まず、近代は国民国家を中心とした制度史が発達し、事実として「刀狩り」「鎖国」「キリスト教禁制」にかんする条令があることから、それが史実として理解されてきた。このことは、制度史として正しい。ところが、ポストモダンでは、施政者の視点ではなく民衆の視点が重視され、その制度が民衆の生活にどのような影響があったかが考察されるようになってきた。つまり、社会史的視点で歴史が語られだしたのである。すると、民衆への影響は一部であったり、限定的であったりしたことが、史料からわかってきた。これらの「発見」から、制度史で常識であった「事実」が見直されるようになったのである。同じ事実であっても、その事実を語る時代の価値観が違えば、歴史の語りは当然変わってくる。歴史学が、語られる時代の認識を抜きにしてはじまらないのは、そのためである。したがって、まず時代ごとの歴史認識を知るための史学史の知識が必要で、あわせていまという時代認識も必要なのである。日本近世史の見直しは、制度史から社会史へと、歴史の語りの重点が変わったためであると考えることができる。


 では、「刀狩り」などはなかったといえるのだろうか。つぎに時代区分・時代認識の理解が必要となってくる。これまで「刀狩令」が徹底して施行されたと勘違いしたのは、近代の視点でみていたからである。近代では、司法制度や警察制度が発達して、法律が国民に平等に影響を与えていた。しかし、近世では日本全土で均一に施行されていたわけではなかった。とくに海域世界のような流動性の激しい地域では徹底せず、塩飽諸島のように豊臣・徳川から自治を許されていたところもあった。このように近世(初期近代)は、近代にない斑(ムラ)があり、徹底さに欠ける時代であったということができる。その特性を考えると、制度の不備や不徹底さを指摘しても、制度史という観点と近世という時代を考えると、否定することはできないということになる。このように「あった」「なかった」の論争には、歴史学のしっかりした基本が必要である。


 ところで、「自律した武器封印論」としての民衆の自立性を高く評価した著者も、「いま、その不測の逸脱に身構える時代になっている」と指摘している。民衆の「武器封印」は、国家権力が生命と財産の安全を守ってくれるという了解があって、はじめて実行できるものである。それが保障されないのであれば、民衆は自分自身と家族を守るために、武器を持たざるをえなくなる。ましてや、未成年者が拉致されたり、殺害されるようでは、日本が長年守ってきた「武器封印」が継続できなくなってしまう。民衆の「武器封印」を解く前に、なんとかしなければ・・・。


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